1-1
強烈な痛みで目を覚ます。
ぼやけた視界に映る天井には、古臭い照明も人の顔みたいな染みも見当たらない。
しかし病院や学校の白いそれかと問われればそれもまた否だ。暖かみのある色。几帳面に揃った木目。見覚えのない天井に、美樹人はぼんやりと瞬いた。
家ではない。病院でもない。保健室でもないだろう。けれど美樹人は柔らかなベッドに寝かされている。全身の痛みからして、怪我もしているようだ。
果たしてここはどこなのだろうか。
回らない頭で考えてみる。けれど尤もらしい答えは出てこなくて、ただ途方に暮れたような気持ちになるばかり。
疑問がぐるぐると螺旋を描き始める。少し気分が悪くなって、喘ぐように息を吐いた。
「……起きてますか?」
すると、不意に声をかけられた。
そして、視界に何かが入り込んでくる。人の顔のようだった。
「落ち着いてください。悪い魔女じゃありません」
魔女?
不思議な言い回しをするものだ。美樹人は輪郭のぼやけた顔を見つめた。
「大丈夫。あなたはすでに、私のもの」
するり、と。
滑らかで、少しだけ冷たいものが、頬を撫で、すぐに離れていった。
そして、次の瞬間。
カッ、と、体の芯が熱を帯びる。
心臓が跳ね上がり、どくどくと脈打つ音が鼓膜を叩く。
熱い。まるで血が沸騰し始めたかのよう。血管が膨張と収縮を繰り返し、皮膚を内側から叩いている。
熱い、熱い、熱い──
「大丈夫。落ち着いて」
ふと手に触れた柔らかな感触に縋り付く。奥歯を噛み締め、思い切り握りしめた。
「っ、……だ、大丈夫、です。落ち着いて、深呼吸をして。熱はすぐ引きますから」
茹った脳に、声が染み込む。
凛とした、涼やかな声。少女のものとも、少年のものとも取れる。どこか幼さを残したそれは、懸命に美樹人を宥めていた。
「……ぁ、う……」
その言葉に従って、ゆっくりと肺を動かしていく。胸いっぱいに空気を吸い込み、吐き出す。そんな単純な動作を、馬鹿みたいに必死になって繰り返した。
熱は引かない。けれど思考回路は確かに回り始め、視界は徐々に鮮明さを増す。
ブレていた輪郭が一つに収束し、美樹人はようやく声の主を視界の中心に捉えた。
「あ……」
白。
最初の印象はそれだった。
混ざりけのない白い髪。
そして、鮮やかな緑。けぶるようなまつ毛に縁取られ、硬質な光を湛えた瞳。
中学生くらいだろうか、その姿を認めた途端に、美樹人は自分の状態も忘れて見惚れてしまった。
「どうですか?」
少女──否、少年かもしれない。その声に、はっと我に返る。
熱が引いている。それどころか、痛みもない。あれだけ酷かったというのに、綺麗さっぱりと消え去っていた。
「あー……大丈夫。多分」
「そう、ですか」
ほ、とため息をつくその表情は変わらないものの、纏う雰囲気は明らかに安堵していた。
礼を言おうと口を開いて、美樹人はふと思い留まる。状況が分からない。まず解決しておきたい疑問が、それなりにある。
「……あんた、誰?」
まずは、そこから。そう思って問うたのだが、
「魔女です」
間髪入れずに返ってきた答えはあまりにも冗談染みていて、笑ってしまいそうだった。
「魔女?」
「はい。魔女です」
しかし、自称魔女の表情は至って真面目。冗談を言っているようには見えず、美樹人は困惑した。
魔女。そんなものが、この世に存在するはずがない。
そんな分かりきったこと、今更確認する羽目になるとは思わなかった。
「マジで言ってんの?」
「ええ。……別に珍しいものでもないでしょう。あなたの出身がどこかは知りませんが、町に一人はいたはず」
「いや聞いたことねーけど」
「……大陸の外の出身ですか?」
「大陸? いや、日本列島だけど……」
「ニッポン?」
きょとん、とする『魔女』に頭を抱えそうになる。
「……日本知らねー?」
「聞いたことありません」
「マジかよ。じゃあここどこだよ……」
「どこって……ヴァランシエンヌの森です」
「ば……? それってどこの県にあんの?」
「県? ええと、キュヴィエの西に」
「きゅうり?」
「キュヴィエ。キュヴィエ王国です。アヴァロニア大陸の西にある。アシルから来たんじゃないんですか?」
「あしる?」
「ここから一番近い町です」
知らない。
町の名前が分からないのはまだ良い。しかし国の名前どころか大陸の名前まで聞いたことがない。
アヴァロニア大陸? いくら地理の授業は寝ていたからって、地球上に存在する大陸の名前くらいは知っている。五大大陸だ。アヴァロニアなんてないはずだし、新しくできることもあり得ない。
そもそも、何故家を出た瞬間に全く知らない場所で目を覚ますのか。そこがまずおかしい。百歩譲っても近所の病院が精々だろう。
困惑しきりの美樹人だが、『魔女』も同じく困惑顔だ。眉を顰めながら、食い入るように美樹人を見ている。
「あの、本当にどこから来たんですか? 家の裏の龍穴で倒れてるし、今自分がどこにいるかも分からないし……もしかして、記憶喪失とか? 頭を強く打ちましたか?」
「いや記憶は割とはっきりしてんだけど……つーか俺、あんたの家の裏に倒れてたの?」
「ええ、血まみれで」
「何で?」
「私の方が聞きたいですよ。何かおかしな気配を感じて行ってみたら、死にかけのあなたが転がってて、それで、私は……」
『魔女』はそこで不自然に言葉を切り、目を伏せた。柔らかな緑に影が差す。
どこか不穏な空気に、美樹人は思わず身を起こした。
「何?」
「……ごめんなさい、私、」
「何かしたの?」
「助けようと思ったんです。でも、手持ちの薬じゃ足りなくて、作る時間もなくて、それで、」
声はどんどんとか細くなっていく。哀れみすら感じるほど身を縮めて、『魔女』は懺悔するように言った。
「その……契約を、結びました」
あまりにも深刻そうに告げられた言葉に、美樹人はは? と聞き返す。
契約を結んだ?
死にかけていたから?
意味が分からない。論理が繋がらない。一体どんな理由があって、死にかけの人間とどんな契約を結ぶと言うのか。
それに、美樹人が死にかけていたというのは本当なのか。薬を飲まされる前は確かに死ぬほど痛かったが、今は至って健康だ。
そう思って、体を見下ろす。
包帯がぐるぐるに巻かれている。そのどれもに、乾いて黒ずんだ染みがこびりついている。
──血だった。
絶句する。
これは、誰の?
「……ご存じありませんか、魔女の契約のこと」
「知らねーけど……てかこの血は何? 俺の?」
「あなたの、です」
「マジで言ってんの?」
「ええ。包帯、解いてみますか? まだ痕が残っていると思いますけど」
二の腕に巻かれた包帯を解く。ぱらぱらと固まった血がシーツに落ちるが、そんなことは気にならなかった。
「うわ、何これ……」
二の腕をぐるりと回るように、真新しい皮膚が張り、肉が盛り上がり、青く血管が透けて見える。
まるで、引きちぎられたかのような傷だった。
「治んの?」
「薬を飲み続ければ。私の契約も結んだ訳ですし」
「その、契約って何?」
「……魔女の契約は従属の誓いです。魔力を分ける代わりに、その……主従関係を結ぶ、というか」
「……あー……じゃあ俺、あんたの下僕になったってわけ?」
「いえ、そうではなく……。ただ、二つだけ。私から離れる、もしくは私が死ぬと、あなたは死にます。魔力蓄積装置があればまだましですが、それも今ここにはありません」
その言葉が、あまりにも真実味を帯びていたから。
美樹人はつい、生唾を飲んでしまう。
けれど、
「……あのさ、さっきから話がファンタジー過ぎんだけど。そんなことで死ぬって言われても、はいそうですかって納得できるわけなくね?」
『魔女』の言葉を鵜呑みにしてしまうのなら、あんまりにもあんまりな状況だ。
美樹人は知らず知らずのうちに、責めるような口調で言っていた。
「……なら、試してみますか」
『魔女』は静かに答える。その瞳に先程までの弱々しさはなく、代わりに決意を含んだ冷徹さを湛えていた。
「試すって?」
「一度、離れてみます」
「……離れたら死ぬんじゃねーの?」
「ええ、ですから、様子を見ながら。安心してください、せっかく助けたのに死なせたりはしません」
そう言って立ち上がると、『魔女』は美樹人の手を取り寝室を出る。そして玄関の木のドアを開け放つと、振り返って眉を下げた。
「先に謝っておきます。……ごめんなさい、苦しい思いをさせます」
ドアの向こうには鬱蒼と茂る森。ウッドデッキを抜けて、木漏れ日の一本道を、『魔女』は歩き出した。
『魔女』の背中が小さくなっていく。
一本道はどこまでも続いているようで、開け放たれたドアから『魔女』の姿が消えることはない。舗装のされていない道を危なげなく進んでいくその足取りは、重いようで淡々としていた。
美樹人はそれをぼんやり眺めながら、大きくため息をついた。植生から場所を推測する、なんて高度なことは、美樹人にはできない。しかしとりあえず、ここが家や住んでいる町でないことは確かなようだ。
一体、何だと言うのか。『魔女』が男子高校生を誘拐できるとは思えないし、嘘をついているようにも見えない。『魔女』の言う通り、美樹人はこの小屋の裏で倒れていたのだろうか。
けれど、それは何故?
徹頭徹尾聞き覚えのない地名と、魔女などと名乗る彼女、もしくは彼。
考えれば考えるほど分からない。美樹人は八つ当たりのように後頭部をガシガシと掻いた。
するとふと、指の動きが鈍いことに気付く。目の前にかざして見れば、手は僅かに震えていた。
「……?」
気付いていないだけで、かなりの精神的ダメージを負っていたのだろうか。そう思って、握ったり開いたりを繰り返してみる。
けれど、震えは治らないまま──美樹人はその場に倒れ込んだ。
「!?」
おかしい、と気付いたときにはもう、全身から力が抜けていた。
遠い、『魔女』の背中。
強制的な脱力感。
体を動かすエネルギーを、一気に引っこ抜かれたかのようだ。指一本どころか、まぶたすら動かない。もちろん──肺も。
落ちるような、感覚だった。
目を閉じてもいないのに、視界がどんどんと暗くなっていく。侵食するような闇に、抗う術もない。
あ、これ、駄目だ。
死ぬ。
そう確信した途端、心臓が、脳が、動きを止めて、
「……」
祖父のブチ切れた顔が、見えた気がした。
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