第3話 敗戦

 車右しゃゆうが前に出て矢を受けたとき、荀罃じゅんおうは己の失態を知った。

 

 会戦という用語がある。一定地域に双方が大兵力を集結し行われる、大規模かつ決定的な戦闘を言う。春秋時代、南北の大国、晋楚しんそ間で三度の会戦があった。そのうち二度目はしんの惨敗であった。味方が敗退する中、せめてに一矢報いたいとした荀罃はいつのまにか楚軍に囲まれていたのである。

 ――これ以上は危険です、撤退してください。

 助言する車右の言葉を振り切ったのは荀罃である。その言葉が正しかったことを車右は主を庇って死ぬことで証明した。御者も矢で射ぬかれ、絶命している。荀罃は、己で兵車へいしゃを駆り、包囲を突破しようとした。立て直すにしても逃げるにしても、まずこの場から離れねばならない。

 手綱をとり楚軍の隙を見つけ、馬を走らせたところだった。兵車がぶつけられ、一人の男が飛び移ってきた。

「ち!」

 馬の足が止まったわけではない。荀罃は手綱をとりながら片手で剣を抜き、一閃、ごうとしたが、相手はで腕ごと剣を弾いてきた。鈍い音とともにぶちぶちとした痛みが襲い、荀罃は反射的に腕を押さえた。弾かれた銅剣は、兵車を越え地に落ちていく。そのまま楚人そひとは荀罃を殴りつけ手綱から引きはがした後、羽交い締めにしながら、馬を御して兵車を止めた。なんという余裕か、と荀罃は悔しさと共に舌を巻いた。

「この旗、お前は荀氏じゅんしか。けいの子か。良い拾いものをしたようだ」

 楚人が磊落に笑いながら、荀罃を後ろから組み敷き兵車の床に押しつける。荀罃がもがくと体重をかけ、戈の持ち柄を再度振るい、背中を打った。荀罃は痛みにさけびそうになったが、唇を噛み斬って耐え、なんとか口を開く。

「私は、卿の子ではない」

 卿、つまり大臣は荀罃の伯父である。そこまでは言わず、

「たいしたものではない」

 と言った。楚人は少し考えるそぶりを見せた。小者であるなら殺してしまおうか、とでも思ったのであろう。が、

「しかし卿の氏族なのであろう。やはり良い拾いものだ」

 と言って、荀罃の腕を手早く縛り上げると、手勢と共に荀罃を己の兵車に放り入れた。楚人の兵車が意気揚々と走っていく。晋軍がどんどん遠くなる。

 荀罃は、生け捕りとされた。いまだ二十そこそこの若者にとって、初陣でもあった。そのまま初めての屈辱と悔恨となった。

 勝利した楚軍は、隊列を乱すことなく南へ帰っていく。荀罃は罪人用の馬車に放り込まれ、他の捕虜と共に連れて行かれた。捕まった中で、最も身分の高いものは荀罃だった。

「ああ。母さんが心配しているだろう、俺はどこに売られるんだろう」

 歩兵と思われる男がぶつぶつ呟いている。捕虜は、奴隷として売られていくのが常識である。荀罃もどこかに売られる可能性はある。が、卿の氏族と知られており、交渉の道具にされる可能性もあった。

 奴隷にされるにせよ、道具になるにせよ、捕虜は人とされない。まあ、この時代、奴隷から王にいたるまで、人権など無いのであるが。

 数日かけた凱旋の旅の果て、たどりついた楚の都は晋と違って湿気が多かった。吹いてくる風に砂は混じっておらず、森の匂いが混じっている時があった。土で作られた壁の文様や様式の違いに、捕まった晋人しんひとは怯えた。荀罃は怯えなかったが、趣味ではないと思った。鳥や人面の意匠を凝らした外壁や柱は、ゴテゴテとして品がないとも思った。

 捕まった晋人は選別され、売れそうなものは生かされ、売れなさそうなものはそのまま殺された。荀罃は殺されなかったが、売られることもなく、再び馬車に押し込まれた。

「勝利の儀に、荀氏の介添えが欲しいと、我が王の仰せだ」

 迎えにきた楚人が楽しそうに言った。宴でさらし者になるのかと、荀罃はうんざりした。この青年は、いまだ世間知らずだったと言って良い。捕虜というものが、分かっていなかった。

 楚王そおうは、荀罃を一瞥したあと、猛々しい笑みを浮かべ闊達に言った。

「初めまして、そしてさようなら。お前を贄とし、その血肉を祖霊に捧げる」

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