第20話 袋に潜み
とうとう、
王族それぞれと商いし、なおかつ虜囚の荀罃にまで顔を出すのであるから、大商人と言って良い。
「私は自由になる財もない。衣は虜囚としての保障だ、ありがたく頂くが、他はけっこう」
常に言い渡すと、商人はあっさり引き下がる。そして、
「最近、このような話を聞いてのです」
と雑談して帰る。その雑談、情報こそが万金に値する。商人はそれがわかって、断られる商品を持ち込み、荀罃もそれを素直に受けて話を聞いた。
当初、荀罃は戸惑った。己は何も返せず、商いとしても良いことはない。何か腹の奥にあるのかといぶかしんでいたが、次第にその棘も解けた。商人は、若い身の上で虜囚になった晋の貴族を本気で慮り、心配していたのだ。思いやりと
この鄭人のおかげで、荀罃は、
そして、今。商人は常のように笑み、商品を断られた後、語り出す。
大敗から立ち直り、周辺蛮族を駆逐させたこと。そして、父が
「父の誉れを
荀罃は思わず呟いたあと、己の口を手で押さえる。商人とはいえ、他人の前で弱音を吐いたことに驚いたのである。商人は体をゆすがって、若者を慰めた。
「
そう、優しさが込められた言葉で語りかけた後、深く拝礼した。
「晋の大夫さま。よろしければ、私がお国へ返しましょう。商いの袋のなかにあなたを入れ、楚を抜ける算段、ございます」
国へ返す。楚を抜ける。荀罃は、頭を殴られたかのようによろめき、床に手をついた。実際、その言葉の衝撃は大きすぎた。二年目はいまかいまかと待った。五年目を越えたあたりで焦燥に懊悩した。いまや、諦めがあった。
帰れぬ、とまではいかない。老いさらばえた己が、もはや知る者など一人もいない晋へ戻る。
「帰れる……」
目を見開きながら呟く。
春の嵐、夏の雨。秋は穏やかで冬は乾いて痛い。黄砂に埋もれそうな場所から飢えた虎狼のように身構え、他者を襲い貪る、懐かしい祖国。
郷愁で目が眩みそうになったとき、荀罃の心にもうひとつの杯が現れた。あふれんばかりに満ちた激情を、そそぎ分けていく。こぼれぬ二つの杯は、荀罃に理を思い出させた。
「……私は大夫だ。こそこそと袋の中に潜み、
静かに、ゆっくりと吐き出した言葉は、重く、乾いていた。叫び出したいほど帰りたいという思いを、丁寧にぶちぶちと潰しながら答えた。
商人が、しかし、と言いかけた時、荀罃は手で制した。
「だが、十年目になれば、汝に願おう。あと一年、私は大夫として帰ることを待ちたい」
二つに分けた杯でも、情が波立っていた。理で押さえても、焦がれるような望郷に耐えようがない。せめて、一年は耐えようと思った。九年耐えたのである。あと一年くらい、耐えられるであろう。
荀罃は勝った。九年前の盤上遊戯、そして今、己の情に勝った。
彼はこの年、晋に返された。
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