第20話 袋に潜み

 とうとう、荀罃じゅんおうが囚われてから九年が経った。二十そこそこであった彼は、三十路に近い。青年期のほとんどを虜囚として消費したことになる。その間の無聊ぶりょうをかこつものと言えば――数年前からか定期的に来るようになった商人であった。鄭人ていひとである。晋楚しんその権益ライン上にあるていは常に脅かされ二面外交でなんとか生きている。そうなれば、民が国に依存しないため、下々に到るまで自立心が強い。この商人も、己一人で生きているように各国を渡り歩いていた。

 王族それぞれと商いし、なおかつ虜囚の荀罃にまで顔を出すのであるから、大商人と言って良い。

「私は自由になる財もない。衣は虜囚としての保障だ、ありがたく頂くが、他はけっこう」

 常に言い渡すと、商人はあっさり引き下がる。そして、

「最近、このような話を聞いてのです」

 と雑談して帰る。その雑談、情報こそが万金に値する。商人はそれがわかって、断られる商品を持ち込み、荀罃もそれを素直に受けて話を聞いた。

 当初、荀罃は戸惑った。己は何も返せず、商いとしても良いことはない。何か腹の奥にあるのかといぶかしんでいたが、次第にその棘も解けた。商人は、若い身の上で虜囚になった晋の貴族を本気で慮り、心配していたのだ。思いやりと侠気おとこぎはこの時代の商人に見受けられる一面であった。

 この鄭人のおかげで、荀罃は、にいながら中原ちゅうげんしんの状況を知れるようになった。

 そして、今。商人は常のように笑み、商品を断られた後、語り出す。

 大敗から立ち直り、周辺蛮族を駆逐させたこと。そして、父がけいになったこと。

 荀首じゅんしゅは卿の弟であるが、傍系として後ろに下がり続けるつもりであったろう。そのような氏族は多い。頭が二つあるのは、災いの元である。が、兄は弟を別の家として自立させ、互いに国を立てていこうとした。

「父の誉れを言祝ことほげぬ、不孝な息子だ」

 荀罃は思わず呟いたあと、己の口を手で押さえる。商人とはいえ、他人の前で弱音を吐いたことに驚いたのである。商人は体をゆすがって、若者を慰めた。

大夫たいふさまがたにとって私は路傍の石のようなもの。石は人の言葉など聞こえませぬ」

 そう、優しさが込められた言葉で語りかけた後、深く拝礼した。

「晋の大夫さま。よろしければ、私がお国へ返しましょう。商いの袋のなかにあなたを入れ、楚を抜ける算段、ございます」

 国へ返す。楚を抜ける。荀罃は、頭を殴られたかのようによろめき、床に手をついた。実際、その言葉の衝撃は大きすぎた。二年目はいまかいまかと待った。五年目を越えたあたりで焦燥に懊悩した。いまや、諦めがあった。

 帰れぬ、とまではいかない。老いさらばえた己が、もはや知る者など一人もいない晋へ戻る。荀氏じゅんしは仕方無く受け入れる。そうして日の当たらぬ小屋の一室で、皆に忘れられながら死ぬのであろう。そういった未来を考えるほどの、諦めがあった。

「帰れる……」

 目を見開きながら呟く。

 春の嵐、夏の雨。秋は穏やかで冬は乾いて痛い。黄砂に埋もれそうな場所から飢えた虎狼のように身構え、他者を襲い貪る、懐かしい祖国。

 郷愁で目が眩みそうになったとき、荀罃の心にもうひとつの杯が現れた。あふれんばかりに満ちた激情を、そそぎ分けていく。こぼれぬ二つの杯は、荀罃に理を思い出させた。

「……私は大夫だ。こそこそと袋の中に潜み、だまし出し抜いて帰るなど、できない。もし発覚すれば、私は卑しい恥知らずとして永遠に語り継がれる。無事戻ったとしても、卑しさは変わらない。父祖にも誰にも、顔向けできぬ」

 静かに、ゆっくりと吐き出した言葉は、重く、乾いていた。叫び出したいほど帰りたいという思いを、丁寧にぶちぶちと潰しながら答えた。

 商人が、しかし、と言いかけた時、荀罃は手で制した。

「だが、十年目になれば、汝に願おう。あと一年、私は大夫として帰ることを待ちたい」

 二つに分けた杯でも、情が波立っていた。理で押さえても、焦がれるような望郷に耐えようがない。せめて、一年は耐えようと思った。九年耐えたのである。あと一年くらい、耐えられるであろう。

 荀罃は勝った。九年前の盤上遊戯、そして今、己の情に勝った。


 彼はこの年、晋に返された。

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