第21話 後日譚③、そして器を手に。
そしてもう一つ。いつ返すかという話の前に、荘王は死んだ。特に変事の記録は無いため、自然死らしい。この、南方の国を飛躍させ、頂点に近づけた英雄は、四十路半ばで
彼は
「
懐かしすぎる父の声であった。荀罃の
荀首が、荀罃に近づき、その肩を優しく撫でた。
「よくがんばった。その顔つき、お前がいかにがんばったか父はわかる。よくやった」
深くしわが刻まれた荀首の顔は、優しさと思いやりと、息子への誇りに溢れている。
荀罃は、荀首にしがみつき、肩に顔を埋めて号泣した。
さて、余談。
後日、例の商人が晋に来たとき、荀罃はあたかも命の恩人のように手厚くもてなした。が、商人は
「功が無いのに賞をいただくわけにはまいりません。私は小人です。これを受けては重ね重ね貴き方を欺くことになってしまいます」
と断り、そのまま他国へ行ってしまった。荀罃の篤実さと共に、このころの商人の人間性がよくわかる逸話である。
とまあ。全てではないが、荀罃は
「最も危険なとき、集中し、緊張を忘れず、しかし己に空漠を作ることこそ、勝機を掴める。その空漠は突然できるものではない、常に意識せねばならん。いざというより、身が詰まっていれば、余裕が無くなる。そうなれば焦りを生じ、取り返しのつかぬ失敗をする。私は父にそれを教えられ、己の方法を見つけた」
荀罃の丁寧でわかりやすい語りに、士匄が食い入るように聞き、頷いた。遊戯のくだりなど、戯曲を楽しむかのようにはしゃいだため、荀罃は一度殴っている。
「空漠……。常に余裕を持ち、考えに隙間をおいておくことでしょうか。
士匄が、手で
「そのとおりだ。汝は飲み込みが早い。で? それができている器であると己で思っているのか、
荀罃の言葉に、士匄が、でもみんなバカでノロマだから、とか、だってわたしがおらねば何もできぬトンマ、などと言い訳をする。そういったところを矯正してくれ、と
「『でも』『だって』汝に会ってから、幾度聞いたか。言い訳と理由は似ている。それは認めよう。しかしこうも言う。理由があるから許されるわけでなく、正しいわけでもなく――勝つわけでもない」
なおも口を開こうとする士匄の襟首を掴むと、荀罃は立ち上がった。少年が、ぐえっという呻き声とともに引きずられるように立ち上がる。
「今から、その辺りをしっかり教え込む。范主――汝のお父上から、
荀罃ご自慢の、士匄専用軍事強化合宿の始まりである。何が起きるかわからず、蒼白なまま抵抗しようとする少年を抱え上げると、荀罃は荷物を感じさせない足取りで訓練場に歩いていった。
今だ、生け捕りにされたことは汚辱であり、一生背負わなければならない。九年の間囚われ、親に孝行もできないどころか心配をかけたのは、悔いても悔いたりぬ。しかし、楚王に勝ったこと、己の中にもうひとつの杯を見つけたことは、誇りとしている。汚点も後悔も、そして誉れも同様に並べている。それは己を掌握しているに等しい。
荀罃は天才ではない。先人や後進に比べ、華やかな事績を残しているとも言えない。しかし、己の器を正しく把握し、惑うことなく、最期まで後進を導き続けた。そういった人生の男もいた、と誰かの心に残れば良いと筆者は思う。
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