第19話 父

 虜囚となった荀罃じゅんおうは、軟禁されたが監禁されたわけでも幽閉されたわけでもなかった。貴族として遇され、王宮内の一角であれば出歩くことも許された。のふところが広かったわけではない。物理的に逃げようが無いのである。

 人が飛び越えることもできぬ城壁に王宮は囲まれている。出入りは門のみであり、出入りは常に監視されている。また、王宮を出たとしても、今度は都市である。楚の都は他の国と同じく高い城壁があり、そして張り巡らされた掘に囲まれている。唯一出入りできる門が厳しく検問されているのは言うまでもない。

 そしてしん中原ちゅうげんの黄河の北西、楚は黄河をはるかに南下し、長江の一部を含んでいるほどである。その距離を徒手空拳で挑むほど、荀罃はバカでも無謀でも無かった。

 基本、楚人そひとは荀罃に無関心であったが、若い王族たちが

晋人しんひとよ。弓を競わぬか」

 と押しかけることもあった。楚は勇士を極めて好む。盤上遊戯で楚王そおうに屈しず勝ちきった荀罃はそれなりに評価されていた。

「喜んで承ろう」

 荀罃は、必ず応じた。王族が礼儀正しい者でも横柄な者でも、すべからく同じ態度で応じる。楚は王と王族によって統治されている。王族から臣に降りた氏族もいるが、楚の場合はこれも王族と言って良い。そして、互いに牽制しあっている。政変に巻き込まれぬためにも、そして虜囚としても、王族の気まぐれを必ず受け、そして平等に接した。

 幾年経ったかわからぬ日であった。春だというのに風は柔らかく、黄砂もない。晋にとって春は強風が吹き荒れ黄砂舞う季節である。

 荀罃は車上での弓遊びを誘われ従った。御者の操る馬車の上から的を狙うのである。こういった誘いがたびたびあるため、荀罃の腕はなまっていない。それどころか冴え渡っている。常に敵陣であるという緊張をもって、この虜囚は生きている。ガラガラと走る馬車、揺れる車上で構え、矢を放った。

 カッと矢が的の中央付近に刺さる。ど真ん中から若干ずれていた。

「惜しい!」

「お見事!」

 両方の声があがる。馬車が止まると、荀罃は一礼をして降りた。王族にまぎれて太子がいた。幼児だった太子は、すっかり少年であった。荀罃は黙って拝礼したが、声はかけなかった。向こうから声が無ければ僭越である。太子も、何も言わぬ。彼は遊戯後のひとときなど、とっくに忘れているのであろう。

「晋人よ。我が父から聞いたのだが、汝の父はなかなかに凄まじいらしいな」

 一人の楚人が声をかけてきた。荀罃よりいささか年が若い。

「……けいの方々を支えるだけの父でございますれば、大仰かと」

 荀罃が謙遜をもって返すと、そうではない、と乗り出して強く言われる。

「あの、ひつでの戦いだ。汝が捕縛された」

 楚人は真っ直ぐと言うべきか、無神経と言うべきか。荀罃は気を悪くもせず、先を促した。

「汝の奪還が難しいと見たとたん、我が楚の王族二人を捕縛し、老将を一人討ち取ったのだ。有象無象ではなく、戦場で選び、確実に三将を狩った」

 荀罃の奪還ができぬと冷静に情をねじ伏せ、高貴な人質を死体込みで三つ取る。それらを突きつけ、荀罃との交換を荀首じゅんしゅは狙ったのである。

 虜囚としての務めを思い出したから、という言葉で荀罃は人々から離れた。

 そうして、部屋で一人泣いた。

 父は、息子を全く諦めていなかった。生きて返すという強い意志がある。そして、己の息子の対価は楚の将三人であると言い切ったに等しい。未熟な嗣子であるのに、父はそこまでの価値だと皆に見せつけたのだ。

 荀首のいない生活はもう何年か。これから何年か。己は父の死に目に会えるのか、物言わぬ父を目の前に哭礼ができるのか。そういった焦燥を覚えつつ、荀首の愛情に、荀罃は感極まっていた。

 必ず帰らねばならない。しかし、父の息子として誇れるよう、大夫として堂々と帰らねばならなかった。

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