第15話 満ちすぎた杯

 三巡目である。仕切り直しであるから、巡という言葉はふさわしくないかもしれないが、三度目というよりは肌感覚が近いだろう。

 荀罃じゅんおうは、己の手首をそっと触って脈を測る。もう、何度このしぐさをしたであろうか。そのたびに、数をかぞえた。いち、に、さん、し、ご。数は少しずつ多くなっている。焦りにくわえて酔いで息が荒かった。浅い呼吸はさらに焦りを呼び、判断を狂わせる。

 落ち着け。平静になれ。酒など、まやかしと思え。

 身体的影響を振り払おうと、荀罃は何度も数をかぞえ、息を整える。

 酔いで錯乱し、無様な負けを迎えるなど、己の矜持が許せるはずがない。集中を保ち、一度の失敗も許さず、出目を信じるしかない。天は全身全霊で祈るものにようやく応えてくれる。ただ待つだけのものには、一顧だにしない。

 そして、泥酔し昏倒すれば、父祖に詫びても許されることはないであろう。前後不覚の己が皮を剥がされ解体されるなど、みっともないどころではなく、天地にも黄泉こうせんにも居所などない。豚の餌になったほうがマシというものだった。

 荀罃は、己の掌を爪で傷つくほど拳を握ったあと、サイコロを振った。痛みは酔い覚ましであり、気合いを入れたつもりでもある。幼稚と思えば笑え、とも思う。楚王そおうは荀罃の自傷に気づいたようだが、何も言わなかった。

 互いの差し手は、やはり特徴的である。攻撃をとる楚王と、守勢を好む荀罃。むろん、荀罃も攻め手となれば果敢であるが、冒険よりも堅実を選んでいた。

「やはりお前はかわいげがない。そういった者は、余裕がなくなる。杯に酒をいっぱいに注ぐと、傾いた途端にこぼれる。余裕があれば、こぼれない」

 楚王が酒杯を掲げて笑った。荀罃が出した出目である。己の手番をひとつ損したことでもある。その酒杯はぎりぎりまで継がれていたらしく、楚王の顎をつたって酒がぼとぼと落ちた。

「このとおりだ。衣も汚れる、酒ももったいない。お前は、完璧を求め失敗し、成功を求め墓穴を掘った。俺が思うに、我が廟に捧げられれば、そのとがもぬぐえるのではないか」

 戯れの言葉に、荀罃は息を止めて耐える。捕虜になったのは未熟ではなく性質のせいだと決めつけられ、死んだほうがマシだと嗤われる。これは、遊戯をする楚王のゆさぶりであり、遊びである。なぶっているのではなく、冷静さを奪おうとしているのだと、思い、屈辱と怒りをなんとか耐えきって息を吐いた。

「王の言葉、訓戒として謹んで我が身のものといたしましょう。私は未熟なものです、未だ余裕を知らず。いつか我が君の元へ戻った時には余裕をもって虜囚の罪をあがない、処されます」

 酔いでふらつく視界をふりきって、荀罃は拝礼した。荀罃が晋に帰れるかなどわからない。しかし、大敗の末に捕虜となった身である。帰れば罪を問われて処刑されることも珍しくはない。

 目が据わり生真面目に応える荀罃を見て、楚王が好ましそうに笑った。

「そう、真面目にとるな。これは酒を呑みながらの遊戯だ。適当に聞き流せ。さて、俺の手番だが……お前に酒を呑ませるのも一興か」

 楚王の手からサイコロが落ちていく。チロチロ、チリン。荀罃の気力を考えれば、この三巡目が最後の決戦である。それ以上は、心も体も折れてしまうに違いなかった。

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