第16話 器を作る

 二巡目とは違い、均衡状態が続いた。互いにふくろうが成らず、魚同士の食い合いが一度起きたくらいである。盤上の穏やかさとは逆に、荀罃の緊張は高まっていく。

 ――仕切り直しは、もうできぬ。

 荀罃じゅんおうは出目が出る度に注意深く動いた。梟が出ぬままの消化試合でもう一度、となれば、集中がもう続かない。楚王そおうには戯れであっても、独特の圧があった。集中力が無くなれば、恐怖や焦りとともに、楚王の圧にも負ける。

 それは、荀罃が楚王個人に屈服するということだった。

 この盤上で、勝たねばならないと、荀罃は強く思い、奥歯を噛みしめる。きしきしと音が鳴った。息の浅さに気づき、手首を触り数をかぞえる。ななつまで数えて、ようやく落ち着いてくる。数は増える一方であった。

「おっと、『白』だ」

 楚王が己の出目を示しながら、弾んだ声で言った。駒をひとつ動かし、酒を命じる。荀罃の前に、ふちまでいっぱいにそそがれた酒が置かれた。それを手にとって呑もうとすると、袖に少しこぼれた。このまま揺れるふりして減らしてやろうか。一瞬考えたが、それは妙案ではなく姑息である。卑劣な発想だと荀罃は振り払い、口を開いた。

「杯をもうひとつ頂けませぬか。からの杯です」

 戸惑う小者に、楚王が顎でしゃくった。してやれ、ということである。小者は言われるがまま、荀罃の前に杯を置く。

 荀罃は酒をこぼさぬよう持ちながら、置かれた杯に半分ほど流し入れた。

「……何をしている?」

 不審さを隠さぬ声で楚王が問うた。脇息にもたれ、頬杖つきながら、うさんくさそうに見てきている。荀罃は、二つの杯をかかげて、見せた。

「こぼれそうなほど入った酒も、二つに分ければ余裕というものです。私が思うに、人の好む隙というものは、生まれつきあるものではなく、作るもの。あなたさまの仰るかわいげ、ですか。これは、己をもうひとつ作れば良い。余裕ある心は、育てるのではなく、己で作る」

 うっとりと酒を眺めながら、荀罃は言い切り、二つの杯を開けた。この時、彼はやけくそだったのかもしれないし、真理にたどりついたのかもしれない。どちらにせよ、かなり酔いがまわっていた。

 ふわふわとした風情で、荀罃は盤上を見る。

「……先ほどの手で梟と成りましたか。楚王とあろうかたが、遅い」

 楚王が梟と成ったということは、またサイコロをふり、動かしていたはずだが、その記憶が薄い。荀罃は眉をしかめた。言葉もろれつがまわっていない。楚王がくつくつと笑い、己の顎を指でとんとんと叩きながら口を開く。

「その言葉、無礼きわまりないが、今は遊戯だ。許す。お前の手番だ」

 荀罃は頷いた。己の駒は魚にひとつ奪われている。ここから梟にも取られれば、勝ちが薄くなるか泥仕合である。サイコロを二つ回した。場にある己は五つの駒。楚王の元に一つの駒。己も楚王から奪った駒があるが、これも魚どうしの食い合いであった。

 荀罃は一つの駒を避難させた。これで一つは、梟に食われにくくなる。そして、次に『方』のマスに駒を入れ、横から縦に変える。もう一度サイコロを振り、出た目の数だけ梟を動かした。

「お前にしては早い」

「その言葉、お褒めのものとありがたくいただきます」

 荀罃はふらつきながら拝礼した。酔いと緊張で嘔吐感が強い。それでも、意地と根性で大夫としての儀礼を行う。礼が無くなっても、荀罃は負けだと思った。貴族としての立ち振る舞いを失えば、荀罃は存在意義を失う。息が浅くなってきたが、手首をとらなかった。その代わり、もう一つの己を考える。余裕があり、空洞の中になんでも受け入れる己。――もう一つの杯。

 楚王は、荀罃の拝礼を諧謔かいぎゃくと受け取ったようで、なかなか良くなってきた、と言った。

 相手にサイコロを渡しながら、荀罃は盤上を見た。勝機が、ある。出目次第で、二手先に己が勝つ。しかし、そのためにはまず楚王の出目が悪くなければならぬ。そして何より、己の出目に奇跡が起きなければならない。

 チン、チリリン。

 荀罃の耳に、サイコロが碗を駆ける音がした。

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