第4話 贄

 にえ――。

 荀罃じゅんおうは、言われた意味がわかり、楚王そおうを見た。あまりの言葉に驚愕が襲い、腹の奥がずり落ちるような恐怖におののく。下を向いていては耐えられぬ。平伏せねばならぬ身であったが、礼儀をかなぐり捨て頭をあげ、楚王を凝視しながら唾を飲み込む。想像もしなかった己は、うかつでしかない。異民族を贄にするなど、しんもしていることだった。

 楚王は、荀罃が悲鳴も上げず、項垂れることもなく、果敢に睨み付けてきていることに感心をした。楚王りょ諡号しごう荘王そうおうは楚随一の名君であり、この時代を代表する天才の一人である。革新を愛し、政治軍事に優れ、臣に対して心の広さと不正を許さぬ厳しさを合わせ持つ、カリスマそのものと言って良い。この時期、三十路であったろうか。とりあえず、ここは楚王で通そう。

「……晋の中軍ちゅうぐんの将は荀氏じゅんしおさ、その弟は下軍かぐん司馬しば。今回、下軍は我が楚に最も蹂躙された。民の弱さはいたわるものだが、大夫の弱さは罪悪でしかない。さて、弱き下軍の司馬の息子、よ」

 楚王がいっそ軽薄な声音で、呼びかけた。

 その瞬間の、嫌悪、汚辱、恥辱、赫怒かくどをどう表せば良いのであろうか。荀罃は怒声をこらえるため、爪を立てて掌を傷つける。か、と小さく呻いた後、歯を食いしばって楚王を睨み付けた。視線で殺せるのであれば、荀罃は楚王を殺しきっていたであろう。それほどの、憎悪に満ちた目つきであった。

 低く唸るような声が喉奥から出る。

「許し無きながら、呼びかけられたゆえ、このおうより申し上げる。我がいみなを呼ぶにあたいするは、我が君と我が父のみ。覚悟のうえのお言葉か」

 確かに晋は弱かった。己のいた下軍は総崩れであったから最も弱く、主君の命を果たせなかったから罪はある。ゆえにそこは良い。が、名を呼ばれるという屈辱はいかようにも許せなかった。脳が沸騰し、はらわたが煮えくり返る。贄になれ、という言葉など、天の果てに飛んでゆく。獲物に襲いかからんとする猟犬のような顔つきで、荀罃は睨み付けた。飛びかからなかったのは、彼の精一杯の矜持である。感情のままに暴れるのではなく、理性を以て戦い、息の根を止めてやりたかった。

「贄に主君も父もない。お前はえびすだ。我が楚に随わぬ国々の親玉、我らの外敵、すわなち夷という」

 楚王が、噛んで含めるように言った。まるで、講義をしているような様子であった。周囲の臣より失笑が漏れる。楚を蛮夷ばんいだと触れ回っているのは晋である。その晋こそ、野蛮人だと楚王は教えてやっているのである。楚の人々も溜飲が下がるというものだったが、捕虜一人辱めてすっきりするのは、器の大きい楚王らしくない。

「生け捕りの戦いに敗れた夷は贄としてびょうほふる」

 言いながら、楚王は荀罃をぴったりと指さした。荀罃は怒りを散らすように大きく息を吸い、吐いた。諱を呼ぶという恥辱で惑乱させ、犬のように屠るつもりか、とも思った。それでは、せめて冷静になり、人として殺されたい。しかし、そう思えば、やはり怖ろしさが背骨を滑り落ちていく。

 贄であるからひと思いに殺されはしない。その恐怖とともに、懊悩が襲う。父祖より貰った身を潰し、皮をなめされ、敵国の太鼓になる。不孝この上ない。さらに、死後も皮のない体をさらして黄泉をさまようのだ。

「罃よ。お前は、古来からの取り決めにより贄とし、祖霊に捧げる。その皮を以て鼓を作り、その血を以て鼓の彩りとしよう。骨は廟に捧げられ、肉は宴に捧げられる」

 生きたまま皮を剥がされ、血を抜かれながら家畜のように屠られる。解体され、骨は祖霊を祀る祭壇で、肉は楚王の宴で、それぞれさらしものにされる。荀罃は名を再び呼ばれた屈辱と、想像を絶する死の恐怖に顔を青ざめながら目を見開き、奥歯が軋むほど歯を食いしばった。何度も息を吸い、吐くため、鼻の穴が大きく広がる。それでも、下を向いてはならぬと、楚王を睨み付けた。贄にするなら、言葉で嬲らずさっさとすればよい。このような、陰湿な男を英雄然とする楚など早々に滅ぶ、とまで思い、楚王を睨む。

 さて。楚王はとても楽しそうであった。楚という国は、陽性の質があり、代々の王は諧謔を好むところがある。

「少々……いや、かなり趣味が悪かった、許せ。しかし、軽重くらいは計らせろ。さて、我が臣がそちらの虜囚になっていることもある。お前を贄にするか、しちにするか、遊戯で占おうではないか。お前は、その資格があると見た、はくどの」

 屈辱をきちんと覚え、節度を持ち恥辱に耐える。恐怖に耐え、命乞いする卑しさ無し。若さゆえに生の感情を出してくるが、楚王はそういった青年が嫌いではない。

 茫然とする荀罃の前に布が敷かれ、盤上遊戯が並べられていく。

「さあ、楽しませてくれ」

 玉座から降りてきた楚王が、荀罃に対峙して、にっかと笑った。

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