第2話 後日譚②

 少年が弓を引き絞る。その目はいつになく真剣だった。

 荀罃じゅんおうはそれをじっと見る。士匄しかいは、才気煥発としか言い様のない少年である。麻が水を吸うように教えれば教えるほど覚え身に溶かしていく。しかし、己の力を誇示し、調子に乗り、しょうもない失敗をする。頭の良さに反比例して考えが浅い。そこまでを見た荀罃は、

 ――危ない子供。

 と、断じた。このまま戦場に出れば捕虜になるどころではない。全軍を危機にさらすようなへまをする。有能なだけに甚大な被害になるであろう。国政にかかわる家である、政治も乱れる。勤勉な無能を越える厄災は、勤勉で有能なである。どう考えても、長じれば迷惑な男になりかねなかった。

 勉学にしても訓練にしても、どこか手を抜いている子供でもあった。己は全力でなくてもできるとたかをくくっているのである。

 しかし、今、士匄は真剣であった。

 荀罃の覚悟しろ、という言葉はこの少年の胸の奥に届いたらしい。愚鈍な恥知らずという言葉も強かったのであろう。子供のくせに矜持だけは高い。

 びゅっと矢が放たれた。矢は中央を貫いていた。士匄は息をつくこともなく再度矢をつがえ、弓を引いた。その姿勢は美しく、彼自身が引き絞られる弓のような印象さえ与えてくる。息を抜いて集中をちらしたくないらしい。もしかすると、そのようなことも考えないほど、集中しているのかもしれない。

 初めて見せた、驚異的な集中力に荀罃は驚きつつ、これは途中で止めよう、となった。過度な緊張は少年の頭や体に負担が大きい。荀罃は、九年前のことを思い出す。恐ろしいほどの緊張状態が続き、終わった途端、己は気絶しかけた。腕を支えられねば、本当に気を失っていたであろう。

 三本目の矢が放たれ、的を貫く。士匄がようやく息を吐いた。荀罃はすかさず

「的の矢が邪魔だ。取らせるから少し待て」

 と制した。控えていた家僕に命じて矢を取ってこさせる。士匄が的をじっと見て、弓を握っていた。瞬きもせず、睨み付けている。荀罃は家僕が戻ってくると、士匄から弓をひっぺがした。

「あ!」

 驚く士匄が弓を取り返そうと手を伸ばしてくる。荀罃はその頭を押さえつけて、遠ざけた。

「汝の覚悟は三本の矢でわかった。この後、百の矢を射ても汝は当てる。常にそうあれ」

「じゃあ、改めて。どうして死ななかったんですか」

「確かに恥辱ではある。が、生け捕りにされる程度で自裁を考えるなど、范叔はんしゅくは存外小心者だな」

 荀罃の答えに、士匄がみるみる顔を赤くし、睨み付けてくる。大人物を自認している少年にとって、小心者という言葉は相当腹が立ったらしい。

知伯ちはくは厚顔、恥知らずではないですか。おめおめと捕まり、のこのこ帰ってきて!」

 怒りと潔癖で怒る少年に、荀罃は木陰を促した。怒っていたわりに士匄は素直についてくる。射場での休憩用に作られた木陰でふたり座ると、荀罃はおもむろに口を開いた。

「私は戦って死ぬことは怖れていなかった。ゆえに、押さえつけられ喉笛を掻き切られること、首を取られ旗の先に掲げられる辱めも受け入れるつもりだった。しかし、生け捕りにされた。戦死せぬなら、私を処すのは君公くんこうだ。君公が勝てとしてなされた戦で、私は負け捕まった。この身は父と君公のものだ。己で己を処するなど、僭越というものだ、范叔はんしゅく

 荀罃の言葉に、士匄がはじかれたように顔をあげ、じっと見てくる。強い光を瞳に宿していた。

「でも、わたしは生き恥は嫌だ。だから、捕まらない。負けない」

 気負いさえある言葉に荀罃は頷く。

「それが一番だ。覚悟ある汝だ、ついでに教えてやろう。戦で捕まったものは贄にされ、その皮は太鼓としその血で塗り飾られ、勝利を祖霊に知らせるための音とする」

 己の腕を出して指で皮をつまむと、士匄に見せつけるように弾いた。想像したのか少年が唾を飲み込み、恐怖を隠さぬ顔を見せた。

 ――あの時、私は。

 荀罃はびびっている士匄など気にせず語りだした。

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