第2部

第13話

 打ち寄せては返す波を私はぼーっとしながら眺めている。天気は快晴、白い砂浜、エメラルドグリーンの海。こんなに綺麗な場所なのに、どうして誰もいないのだろう。

 と思ったら、隣を見ると緑ちゃんがいた。いた、というよりは立ち現れたといったほうが正しいかもしれない。私はこの出来事にやや違和感を覚えるが、気にしないようにする。彼女はいつものように薄い唇にわずかな微笑みを携えて、真っ直ぐに波打ち際を眺めている。隣にいる私のことには、気がついていないみたい。私は彼女の視界に入ろうとするけど、彼女の焦点は合わず、マネキンみたいに微動だにせず海の方を見ている。

 次の場面では、私はビーチパラソルの下でランタンを頼りに独りで本を読んでいる。楽しいパーティーのような昼が終わり、夜になっても私は一人でビーチに留まっている。突然、私は泣き叫びたくなる。暗い夜の海は私の叫びをかき消してしまうだろうと思うと、無力感に苛まれる。

 そこで何の脈絡もなく、昨日読んだ小説の登場人物である名探偵が出てくる。私しかいないビーチに事件の香りはしないのに、なぜ彼はいるのだろう。そこで私は、あ、これは夢かもしれないと思う。夢だと自覚したら、夢の中で楽しいことをしようと思う。こういうの、なんて言うんだっけ、そうだ、明晰夢だ。夜の海でしたいこと、うーん………。


「緑茶さん、まだ行かない?」

「あ、うん、碧起こしてから行くから、先行ってていいよ」

「碧ちゃん、熟睡だねえ」

「こんなに気持ちよさそうに熟睡されると、起こしづらくて。もうちょっと寝かせてから起こすから」

「りょー」

 緑は碧の席の横に立っていたが、赤星りさと黄倉みなみが教室を出ていくと、その場にしゃがみこんだ。碧の寝顔を見るためである。碧は机に突っ伏すようにして寝ていたが、気道の確保のためか、顔をやや右腕側に向けていた。

 まつ毛、長いなぁ。緑は碧の寝顔を見ながら思う。こんなに近距離で碧の顔をまじまじと眺めるのは、夏休みのあの日以来である。

 クラスメイトがぞろぞろと移動教室に向かって行き、気づけば教室には碧と私の二人になっている。

 碧、日焼けとかしないのかな。色の白い、たまご肌の碧の頬を見ながら、緑は疑問に思う。碧は文芸部にしては割とアクティブな方で、私を誘ったり、誰かを誘ったり、または一人で色々なところに行ったりする。この陶器のような肌は、生まれ持ったものなのだろうか。それとも努力の賜物? 去年の夏休みはツバの大きな麦わら帽子をかぶっていたな。花柄のワンピースと合わせてよく似合っていた。

 碧を、じっと眺める。私が好きになったのはこの子で、今の私の恋人。シナプスを増強するために、何があっても忘れないように、私はこの一瞬を脳に刻みつける。

 ちょっとだけ、顔を近づける。すぐに碧の香りが鼻腔をくすぐる。静かな寝息が聞こえる。世の中に必要な全てが、この小さな空間にまとまっている気がする。

 いかんいかん、碧の魔力で吸い寄せられそうになっていた。早く碧を起こさないと。

 私は左手を伸ばして、人差し指で碧の頬を押す。

 あれ、起きない。

 そのまま、何度か碧の頬を優しく押す。普段は触ることのできない場所だから、この体験は貴重だ。起こしたいけど、しばらく起こしたくないという複雑な感情。

 ん、と碧が言う。

 私は左手を引っ込めて、肩をさする。むにゃむにゃと言いながら、碧が顔を上げる。

 寝ぼけ眼であたりを見渡す。

「……フロイトもびっくりだな」

「いや、夢じゃないから」

 起きたら教室で私と二人きりというのは、確かに現実感がないかもしれない。碧の深層心理がそれを望んでいたら嬉しいけど。

 私は碧の頬をつまむ。

「痛いでしょ?」

「……ほんとだ、緑ちゃんの香り……」

 碧、嗅覚で私を認識してたの? と驚きながら、照れくさくて一歩後ろに下がる。

「ほら、今日の化学、実験室でやるから早く準備して」

「ん……え、時間やば!」

 わたわたと準備を始める碧。

「そんなに急がなくてもいいよ。川谷先生、学年主任に捕まってたから」

 さっき職員室に用事があって行ったときに見かけた。

 化学の川谷先生は優しくて生徒に人気があるが、少し抜けているところがあって、学年主任の先生に目をつけられている。人柄は温和だが、授業の進度は容赦ない。

「あの様子だと、五分は遅れると思うから、ゆっくり行こ」

「それで緑ちゃん余裕そうなんだ」

 なるほどと言う碧は、謎を解き終えた名探偵のよう。

 人気の少ない廊下を碧と二人で歩く。教室はわずかなさざめきの中、授業開始のチャイムを待っている。そんな中ゆっくりと歩いているのは特権的な気分になる。

「今日、テスト返ってくるかなぁ」

「さぁ。実験室ってことは、まだ採点終わってないんじゃない?」

 テスト週間が明けて次の火曜日だった。

「……ていうか碧、さっきの古典、爆睡だったでしょ」

「うう……。春はあけぼのから先の記憶がない……」

「内容、枕草子じゃないけど。しかも冒頭も冒頭だし」

 言ってから、碧のユーモアにじわじわ来た。誤魔化すように、咳払いをしてから言う。

「……昨日は寝られなかったの?」

「うん……最近本読んでなかったから、積読がバベルの塔みたいになってて……読んでたら三時になってた……」

「それなら読まないと神様に怒られそうね」

 確かに、最近の部活のない日の碧は放課後私と一緒にいることが多かったから、本を読む時間が少なかったのかもしれない。

 碧は私の方を見て微笑む。

「でも、積読が溜まるということは、現実世界が充実していることの裏返しなのかもしれないと思ったら、それはそれでいいのかも」

「何それ、すごいポジティブ」

「ふふん、最近のあおむしはポジティブなのだ」

と言って胸を張る。なんとなく目のやり場に困る感じがして、私は廊下の窓の外を見る。

「あとは体育祭がなかったら言うことはないんだけどなぁ」

「それは同感。どうせやるなら私は馬術とかやりたい」

「なにそれ、楽しそう! じゃあ私は、……犬追物」

「え、犬が可哀想じゃん」

「うわぁん、一番最初に取り出したのがこれだったよぉ」

「ピンチになるとポケットから余計なものが出てくる猫型ロボットみたいね」

「私は猫派だけど、ワンちゃんも好きだから……くれぐれも、誤解なきよう……」

「ネズミは?」

「ちょっと苦手」

「これからあおえもんって呼ぶことにしようかな」

「ぼくはたぬきじゃないよう!」

 ふふ、と笑ってから、碧はたぬき顔だから、割と当てはまってるなと思う。他のクラスの先生とすれ違う。私は浮かれている顔を見せないよう、何でもない風を装って通り過ぎる。

 階段をあと一階分降りて、右に曲がって奥の教室が化学室だ。私は土日に練ったプランを今のうちに伝えようと思った。

「そんな憂鬱な体育祭が終わったら、ちょっと行きたいところがあるんだけど」

「え! どこどこ?」

「……水族館とか、どう? 亀浜水族館」

 一瞬で碧の顔にパッと花が咲いた。

「めっちゃいい! 行きたい!」

 階段の踊り場で飛び跳ねて喜ぶ碧。

「小学生以来行ってなくて、行きたかったんだよね! リニューアルしてから気になってはいたんだけど!」

「……碧、ちょっと声大きいかも」

「あ……ごめん……」

 声は小さくなったけど、慣性の法則が働いたのか、小さなステップはしばらく続いていた。

「碧が行きたいかな、と思って探してたんだけど、そんなに喜んでもらえるとは」

「さすが緑ちゃん。私のツボがわかってるねえ」

 碧は生き物が好きだから、動物園とかも考えた。おでかけ感が欲しかったから、遠い水族館の方にしたけど。

「じゃあ明日、ファミレスで計画立てよ」

「うん! わーめっちゃ楽しみ」

「眠気はふっとんだ?」

「布団と一緒にね」

 面白いこと言ったでしょ、という碧のドヤ顔が可愛くて、思わず笑ってしまった。

 授業開始のチャイムが鳴る。

「えへへ、チャイムも笑ってる」

「一応、急いでる感は出しとこか」

「この日のために演技を磨いてきたのだ」

 急いでる感を出しながら入った化学室は私の目論見通り、先生がまだ来ないことをいいことに、楽しげな雑談の声が広がっていた。


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