第一部
第1話
穏やかに打ち寄せる湖の波みたいだな、と思った。彼女がクラスメイトに呼びかけられて、振り向いた時、黒髪のポニーテールが揺れるのを見て。五月の爽やかな日に一人でパラソルの下のビーチチェアに腰掛けて、ふと本を読む手を止めて、湖を見渡すと、そこには誰もおらず、ただ穏やかな波が寄せては返している。周りは山の緑に囲まれて、遠くから鳥のさえずりが聞こえる。深呼吸をする。空気がおいしい。
彼女はプリントを両手で持ちながら、クラスメイトの男子と話している。彼女はうなずき、微笑み、何かを言い終えると、少し間を置いて、また元の向きに戻った。
その髪の軌道を見て、流れ星みたいだな、と思った。辺りはすっかり夜になっていて、私はランタンの明かりを頼りに本を読み続けている。キリの良いところまで読み終えたので、私はしおりを挟んで本を閉じ、ランタンの明かりを消して、空を見上げる。空気は少しひんやりとしていて、上から羽織ったカーディガンがちょうど良い。ふう、と息をついた、そんな時、静かに流れ星が、視界の右側をよぎる。緩やかな曲線を描きながら、虚空に消えていく一筋の光。願い事を言うには、刹那すぎる時間。だけどそんな時間に、幸せを感じる。
「おーい、何ボーッとしてんだ?」
私は隣の席の男の声で、ふと現実の世界に引き戻される。さっきまでの湖畔での優雅な時間は何処へやら、あたりはざわざわとした話し声と、机や鞄の中を整理する物音に包まれる。
「はぁ〜〜、もう、せっかく良い気分に浸ってたのにぃ」
私が文句を言うと、隣の席の倉須君は言った。
「どうせ、今日の晩ご飯はなんだろなとか、そういうことを考えてたんだろ?」
「違います。もっと優雅で文化的なことです」
「ああそうか。じゃあフランス料理だったら何食べたいかな、とか、世界三大料理ってなんだっけな、とかか」
「なんで食べ物限定なのよぉ」
この隣にいる
「そりゃ、はらぺこあおむしだからな」
「誰がはらぺこあおむしじゃい」
以前、授業中の静かな時に私のお腹が鳴ってしまった時に、彼はすかさず「いっけね、朝飯、プリンだけじゃ足りなかったわ」と戯けて、クラスの笑いを誘い、フォローしてくれたことがあった。それだけならばイケメンエピソードなのだが、彼は私にちょっかいをかけることを生業としているため、折々でこのことをいじってくる。黙ってくれたら嬉しいのだが、彼の性格上、そうはいかないのだろう。私の名前が「
そんなこんなで、配布物が行き渡り、先生の話が終わると、久しぶりの放課後となった。夏休みが終わり、二学期が始まる。これからまた、同じような毎日が続いていくのだろう。湖畔の波のさざめきや、鳥のさえずり、流れ星の煌めきなど、なかったかのように。
「碧、帰る?」
支度が終わって立ち上がろうとする時、声をかけられた。目を向けると、そこには湖畔のさざめきの主が。立ち上がりながら、言った。
「うん。緑ちゃん、今日もお美しいねえ」
声をかけられたことで、にへらにへらと頬が緩んでいて、思わず口をついて出た。私は彼女に話しかけられるのが大好きで、それも久しぶりの教室でのことなので、テンションが急上昇している。
「もう、そういうのいいから」
「ふふふ。照れてる?」
「照れてない。早く行くよ」
そんなやりとりを楽しみながら、これでも私もやっている事は倉須君と変わらないかもしれないと思った。楽しくなると、その人の反応が見たくなって、思ったことをそのまま口に出してしまうのだ。
「……碧って、誰にでもそういうこと言うの?」
「へ?言わないよ?緑ちゃんだけだよ?」
「ちょっと待って、これ私が言わせたみたいになってる。まずいな」
「?」
「……まあ、碧の言うことを真に受けるのも良くないか……」
「なんか失礼なこと言われた気がする」
「だって、日陰とはいえ真夏のベンチでずっと本読んでる碧の言うことだもんね」
「ぐっ」
それを言われると弱い。
夏休み、私は緑ちゃんが全然構ってくれなくて、とても寂しい思いをしていた。たぶん、私の変人さに愛想を尽かされて、距離をおかれたのだと思った。今までだってそういう人はいた。最初は面白がってくれる人でも、次第に距離を置かれて、私もそれを察してそれ以上距離を詰めるのはやめた。
でも、緑ちゃんに距離を置かれるのは、正直きつかった。気が合う友達だと思っていたし、そんなに気に触るような事はしていないつもりだったからだ。しかも、誰にでも優しい緑ちゃんに嫌われるなんて、私は相当まずいことをしたことになる。それなのに、何の自覚もないのだ。文芸部の友人と話すときは顔に出さないようにしていたが、私は一人でいるときは相当落ち込んでいた。
そんな夏休みのある日、私は図書館で緑ちゃんを発見する。悩むより先に、私は彼女に声をかけた。久しぶりに話す緑ちゃんに、私はテンションが上がって楽しくなっていた。そして、こう考えた。規則正しい生活を送っていそうな緑ちゃんなら、明日以降も図書館に来るかもしれない、と。
図書館は学校からは近いが、私の家からは自転車で四十分ほどかかる。それでも、緑ちゃん会いたさに、次の日は朝早く家を出発し、図書館の外のベンチに腰掛けて、本を読みながら緑ちゃんが来るのを待った。携帯で連絡はとっていない。また断られたら嫌だし、何より偶然会う方が自然に話せる気がしたからだ。それで、さりげなく、私を避けている理由を聞こうと思った。
最初の方は図書館に向かう人を眺めるのと本を読むのが半々くらいだったが、気づけば本に熱中してしまい、通る人を確認する回数が減っていった。まあ、察しのいい緑ちゃんなら、私がベンチに座っていたら気づいてくれるだろうと甘えていた。気づかないフリをされたら、そのときは仕方がない。私はそれより、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』を読むことに夢中だった。
そんなわけで、九時から本を読み始め、気づけば正午をまわっていたらしい。さっきから文字がぐるぐると回って、文の羅列が意味をなさなくなっている。身体の異変を感じたが、ずっと座っていたからか、身体が動かない。まずい、熱中症かもしれない。助けを呼ぼうにも、声が出ない。フラフラして、意識がおぼつかなくなってくる。
その時に、聞き覚えのある声に呼びかけられた。ずっと待っていて、聞きたかった声だ。朦朧となる意識の中で、安心感が心に広がっていったのを覚えている。
そんなふうにして、夏休み、私は『華氏451度』を読んで仮死状態になっているのを、緑ちゃんに助けられた。その一件を経て、彼女は私を放って置いたらまずいと思ったのか、積極的に誘ってくれるようになった。逆に、私が彼女を誘っても、断られることが減った。人に迷惑をかけてはいけないと小学生の頃教えられたが、私の場合は、迷惑をかけることで彼女との絆が強固になったと言える。
そんなわけで、私は緑ちゃんに頭が上がらないのである。
「その節は、ありがとうございました……」
「改めてお礼を言わなくても良いけど」
「緑ちゃんは命の恩人だよぉ」
「はいはい。……まあ、その一件は私も悪かったし」
「……え?何か言った?」
「……なんでもない」
「あ、そうだ。あの時のポカリ代、まだ払ってなかったね」
「それはもう良いって、この前も言ったでしょ?」
「あれ?そうだっけ?」
「もう何回目よ。碧のシナプスが心配になる」
「そっかぁ。頑張れ、私のシナプス!アポカリプス!」
「世界の終末迎えてるじゃない……」
脳死の私のボケを拾ってくれる緑ちゃんは、大天使である。
「……今のアポカリプス、ポカリ要素も入っていて、我ながら天才では?」
「……何しみじみと自画自賛してるのよ」
緑ちゃんは呆れたように言う。でもそれは、私を見放すようなものではなく、むしろ優しい温度を持った声音だった。これからも一緒に友達でいられることを確信できるような。
緑ちゃんはクスクスと笑っていた。
「ふふ。二学期はこの熱中症ネタでずっと碧をいじれるな」
「……あ。ちょっとー。最近いじられ過剰なんですけど」
「『これが本当の熱中症』だって。もう本当に、ぶっ倒れそうになってるのに何言ってるんだか」
「えぇ〜。あの状況にしては良いボケだったでしょ」
「碧はシナプスがアポカリプスだから、何度もこうやっていじって、同じミスを繰り返さないようにしないとね」
「わーん。緑ちゃんが早速アポカリプスをいじってくるよぉ」
「むしろ二次災害を防いでるんだから、感謝してほしいわ。この命の恩人に」
「うう……。いつもありがとうございます」
「やっぱ碧はいじりがいがあるなあ」
「二学期こそは……いじられキャラを脱してやる……!」
「はいはい。頑張って」
飄々と言う緑ちゃん。私たちは気付いたら校門までたどり着いていた。徒歩通学の緑ちゃんと自転車通学の私は、家の方向が逆なので、ここでお別れになる。
何かお別れの挨拶を、と思っていると、緑ちゃんは、少し俯いてから、私の目を見て言った。
「……でも碧は、私を待っててくれたんだよね?」
「……うん、そうだよ」
「そっか」
ほんの少し頬を赤らめて、口角を上げて頷く彼女は、照れているように見えなくもない。
「……それじゃ、また明日」
手を振って、踵を返す緑ちゃん。ポニーテールが、感情を持って揺れているように見える。
照れていそうな人に照れてる?とは逆に聞きづらい。聞くのが正解とも思えない。こんなだから当分いじられキャラは脱せられないな、と思いながら、私は彼女と反対側に向かって、ペダルを踏み締めた。
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