第2話
暑さの残る九月、体育の授業は体力テストに向けた練習だった。五十メートル走、立ち幅跳びをして、ヘトヘトな休み時間。来週は握力と上体起こし、反復横跳び、長座体前屈の練習がある。小さい頃はバレエをやっていたので、身体の柔らかさには自信があるが、それ以外は全くダメだ。体力テストの本番が終わったら、体育祭の練習が始まる。毎年秋は憂鬱な季節なのだ。
教室にはエアコンがついているが、設定温度が高めなので、体育の直後は暑い。私は両手でパタパタと頬に風を送っている。なんだか効率は悪い気がするが、何もしないよりは涼しいはずだ。
すると、教室の前の方から、緑ちゃんが何かを持ってこちらに向かってくる。私の席の横まで着くと、私に向かってぱたぱたと持っていた団扇を扇ぎ始めた。
「わあ涼しい。それ、学園祭の時のやつ?」
「そうだよ」
毎年五月にある学園祭では、クラスごとにTシャツと団扇を作る。それらは体育祭など、クラスの行事のたびに使われることになる。
「涼しくて嬉しいけど、……どうしたの?」
「ううん。別に。碧が熱中症になるといけないと思って」
「あ、またそのこといじったな」
ふふ、と楽しそうに団扇を扇ぐ緑ちゃん。すると、倉須くんとは反対側の、私の隣に座っている黄倉みなみさんが声をかけてきた。
「碧ちゃんずるーい。緑茶さん、私も私も〜」
「はいはい」
「わーい、涼し〜」
クラスの中でも明るい方の黄倉さんが、緑ちゃんに風を送ってもらって喜んでいる。ちなみに、緑ちゃんは茶道部所属なので、同じ部活の人には「緑茶」と呼ばれている。黄倉さんは、少し敬意を込めて、緑茶さん、呼びなのだ。
「え〜、みなみずるーい。私は?」
黄倉さんの前に座っている赤星りささんが会話に加わる。
「って、りさはハンディファン持ってるじゃん」
「……赤星さん、それって、持ち込みOKだったっけ?」
「え?ほら、物理の勉強用。モーターがどうやって動いてるか、研究してるの」
「そっか。なら問題ないか」
「その理屈でいいんかい」
「私も通ると思わなかった」
一応、校則では持ち込みはいけないことになっているが、教師は見かけても黙認している。
「緑茶さん、もう涼しくなった〜ありがとう〜」
「これも学級書記の務めですから」
「偉大すぎる……一生ついていきます……」
楽しそうに黄倉さん達と会話を続ける緑ちゃん。
その時、何故だか、ほんの少しだけ、心の空が曇るのを感じた。温度が下がった空にあるわずかな塵に、氷や水滴が集まっていく。でもそれは、地上に雨をもたらすほどの大きさではない。
緑ちゃんは優しい。緑ちゃんは誰に対しても優しい。一年の時から人気があったし、二年にあがって学級書記に投票で選ばれるほど、人望がある。だから別に、私だけに優しいわけじゃない。いい聞かせるように、心の中で思う。
しばらくして、緑ちゃんがまた私の方に向き直り、風を送り始めた。
「……緑ちゃんは、暑くないの?」
「碧が涼しそうにしてくれたら、私も涼しい」
「……変なの」
頬が緩む。送られてきた風で、前髪が揺れる。緑ちゃんの送る爽やかな風は、五月の晴れた日の木陰を思わせる。見上げると木葉に縁取られた空が見える。
風を感じながら、彼女の優しさの理由を考える。
「ありがとう。今度は私も団扇持ってくるね」
「え、うん。……やったぁ」
理由なんて、ないのかもしれない。あるいは、理由は求めるものではないのかもしれない。休み時間も終わりを迎え、席のほうに踵を返す緑ちゃんの後ろ髪を見て、そんなことを思った。
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