第3話
緑ちゃんの所属する茶道部と私の所属する文芸部は、どちらも基本的に火曜と木曜の週二回の活動がある。もちろん、文化祭などのイベント前は毎日活動に追われるし、活動日でなくても部室で駄弁ってたりすることもできる。参加必須なのが火曜と木曜ということだ。他の運動部や吹奏楽、弦楽部などと比べたら、比較的緩い部活だと思う。
部活のない水曜日。その日は放課後に緑ちゃんと図書室で勉強することになった。夏休みの課題をやっとの思いで終わらせたと思ったら、今度は二学期の課題が溜まってきた。やたらと課題が多いのは自称進学校の特徴らしい。
「化学の基礎プリ、意味わからないんだよねぇ。緑ちゃんに教えてもらえる今日という日に感謝だよ」
「私が教えるからには、次の中間で八割は取ってもらうから」
「え……八割?蕎麦の話?」
緑ちゃんにビシッと叩かれた。彼女は成績優秀で、上位三十番までが張り出されるテストの掲示で、いつも上の方に名前が書かれている。一方私はいつも平均くらい。何かの教科が良い点の時は、他の教科が悪い点で、結局平均に回帰する。ホメオスタシスかな。
「高校入ってから、理系科目で八割取れたことあったかな……。現代文だけは得意なんだけど」
「碧は、どうして理系にしたの?」
「うーん、得意なのは国語だけど、興味があるのは生物なんだよね」
「そういえば、去年の夏、生き物観察で山に連れて行かされたっけ」
「そうそう。冒険って感じで楽しかったよね。……あとは緑ちゃんが蛇を見つけてすごい声出してたのも面白かった」
「余計なこと思い出さないの」
去年行った山は、亀橋駅から電車で一時間程揺られた先にある。かなり疲れたので、緑ちゃんに「夏の山登りは一年に一回まで」と言われてしまった。逆に一回は行ってくれるのか、と思ったけど、今年誘ったら断られてしまった。緑ちゃんがそっけないモードに入っている夏休み前半に誘ったから、山がダメだったのかどうかはわからない。
図書室の扉を開けると、エアコンで中は涼しかった。コロナ禍が終わっても、自習スペースの席にはアクリルのパーティションが残っている。目的は終えても、形だけは残っている、形骸化とはこういうことなのだろうと思う。私たちはそこで隣り合って勉強を開始する。
しばらくして、私は緑ちゃんにヘルプを求める。
「緑ちゃん……ここがどうしてもわからない……」
「基礎プリね。どこ?」
そう言って、緑ちゃんは椅子を動かして私の隣に来る。パーティションで区切られている分、狭いスペースを二人で共有することになる。私も少し左にずれて、緑ちゃんの来るスペースを空ける。
「えっと……モル計算はわかる?」
「……盛る計算?勘定をごまかす的な?」
緑ちゃんが信じられないものを見る目でこちらを見るので、仕切り直す。
「わかるよ、わかるよ。ほら、十二個を一ダースって数えるみたいな話でしょ?」
「まあそうだけど……。じゃあ、一モルの原子の数は?」
「えっと……たくさん?」
緑ちゃんがまた信じられないものを見つけた目で私を見るので、慌てて言葉を紡ぐ。「なんかすごい大きな数! 6.0何かかける十のたくさん乗!」
「気持ちは伝わるけど……それじゃあテストの点にはならないよ……。アボガドロ定数は大体問題文に書いてあるけど、計算に慣れてたら自然に覚えるから」
と言いながら、私のプリントに、1molは6.02×10^23個と書いてくれた。筆跡フェチの私の所感としては、緑ちゃんの字は頭いい理系の女の子!っていう感じで見ていて透き通るよう。
「それであとは、気体の反応式と状態方程式から、計算すれば……」
「???」
「えっと……」
困惑する私を察して、緑ちゃんはプリントに続きを書いてくれた。筆跡フェチの私は大歓喜。
「……碧、一応聞くけど、今までのテストはどうやってきたの?」
「全部、丸暗記しました! だからテスト終わると全部忘れちゃうんだよね」
緑ちゃんは今日三回目の信じられない生き物を見つけた顔で私を見てきた。もうやめて、その顔。少しずつメンタルが削られていく音がします。
「ちゃんと理屈で理解しないと、忘れちゃうの。最初から説明するから、聞いてね?」
「ありがとう、ありがとう……」
それで緑ちゃんは本当に手取り足取り教えてくれて、いろいろな疑問が氷解したのでした。意味わからないと思った化学の先生の話、次からは少しはわかるかも……。
図書室は五時で閉まるので、私たちは図書室から昇降口へ向かう。外はまだまだ明るく、野球部が大きな声を出して練習を続けている。吹奏楽部の練習している音も、どこからか聞こえてくる。
「緑ちゃん。今日は本当にありがとう」
「いいから。というか、碧にはもっとちゃんと教えないといけない気がしてきた……」
どうやら緑ちゃんのしっかり者属性を刺激してしまったよう。私の無知がまた暴かれていきそうです。無知の知。ムチムチなソクラテス。
私が一人でクスクス笑っているのを見た緑ちゃん。
「え……今笑うところあった?」
「あ……いや、なんでもなくて、ムチムチなソクラ……じゃなくて」
「碧って、やっぱり変人」
「えっと、違くて、そうだ、緑ちゃんにまたいっぱい教えてもらえるなら嬉しいなって」
「……ほんと?」
四階と三階の間の踊り場で、緑ちゃんは立ち止まった。
「うん」
「……じゃ、また金曜も教えるから」
「ありがと」
緑ちゃんは嬉しそうに微笑んでから、付け加えた。
「そうだ、碧が階段で転んだらダメだから、はい」
右手を差し出す緑ちゃん。
「え……いや、ドジな私でも流石に転ばないよ」
「いいから、はい」
「万が一転んだら緑ちゃんも転んじゃうし……」
「その分慎重に歩くでしょ?」
そう言って、私の左手を掴む緑ちゃん。緑ちゃんのほっそりとした白い指は、比較的ぷっくりしている私の指とは違って、お人形さんみたい。
それにしても、夏休み後半から、私は緑ちゃんと手を繋ぐことが増えている気がする。緑ちゃんに紹介してもらった喫茶店に行く時は、いつも手を繋いでいた。お出かけするからテンションが上がっているのかなと思っていたけど、校内でも発生するとは。
緑ちゃんの横顔を眺める。唇はきゅっと結ばれて、瞳は前を真っ直ぐに見据えている。マシュマロを思わせる白い肌は、ほんの少し桜色に染められている。さっき勉強教えてもらっている時も思ったけど、睫毛の曲線が綺麗。
「……碧、よそ見してると転ぶから」
「階段、歩きにくくない?」
「スリルあって楽しいでしょ」
緑ちゃんは、時々不思議なことをする。まあ、緑ちゃんからしたら、私の行動の方がよっぽど不思議なんだろうけど。
不思議なことと言えば、昇降口で靴を履き替える時、緑ちゃんは普段使わない靴べらを左手で持って靴を履いていた。靴のサイズが合わなくなってきたのかな。
外は相変わらず暑かったので、また熱中症にならないようにと、緑ちゃんに注意された。本当に二学期中はずっと言われそうだな……。
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