第10話

 変動の激しかった九月中旬は過ぎ去り、穏やかな日々を過ごすうちに私たちは十月の世界に突入していた。夏の暑さは次第に影を潜め、夕方になると涼しい風が砂丘の砂をゆっくりと運ぶように吹いていた。その砂は私たちの間にあったギクシャクとしたわだかまりを徐々に覆い隠し、風紋は柔らかな曲線を描いた。

 私たちはそれなりの時間をかけて、ある一定の距離感を保った位置で落ち着いていた。お互いに思うところはあるだろうし、これがベストであるかと言われたらそうではないだろうと思いつつも、毎日が些細ないさかいを生むような状態よりは、凪のような穏やかな日々を選んでいた。相変わらず手は繋がないし、図書館には行かないし、ファミレスにも行かない。でも、雑談はするし、一緒に勉強をするし、校門まで一緒に帰る。ニューノーマルな生活に慣れてきた。基本的な居心地の良さに、ある種の諦めと、苦い思いと、申し訳なさとを添えて。

 

「そうそう、碧もやればできるじゃん。やっぱ私の教え方がいいからかな」

 図書室で私の解いた化学の問題集ノートを見て、緑ちゃんは嬉しそうに頷いていた。

「うん、緑ちゃん大先生のおかげ」

「それはそうとして、碧が素直なのがいいんだよ」

「……え、緑ちゃんに褒められてる?」

「……私、そんなに普段褒めてない?」

 むくれたように言う緑ちゃんが可愛い。

「それとも、……まだ褒め足りない?」

「わ、私、褒められたら調子に乗るタイプだから……」

「伸びるタイプじゃなくて?」

「寿命は伸びるかも…………あ、これ、なんか面白いこと言おうとして失敗してるやつだ」

 くす、と緑ちゃんは笑う。

「別に、無理に面白いこと言おうとしなくていいよ」

「……何もしなくても面白いから?」

「笑いの天才じゃん。そういうことじゃなくて」

 私の左側に座っている緑ちゃん。左の肘を机の上に置いて、私の方を見ながら、頭を左側に傾ける。いつもはポニーテールの艶やかな黒髪を今日はおろしていて、それがウィンドチャイムのように揺れている。

「面白くても面白くなくても、私は碧と一緒にいるのが好きだから」

 微笑んだ表情からは、一点の翳りも見えなかった。砂丘の風は私たちをこんな世界に運んでいた。

 頬が熱くなる。

 何も返事をしない私を見て、緑ちゃんが続ける。

「……碧、私がおばあちゃんになるまで友達でいてくれるんでしょ?」

「……っ、そうだよ」

「ふふ、約束したからには、守ってもらうから」

 そうやって笑う緑ちゃんを見て、私は、心の隅がじりじりと熱くなるのを感じる。その表現は私の心情を百パーセント言い表したものではなくて、むしろ私はある種の物足りなさを感じていて、それをうまく伝える方法がわからない、という今の気持ちをありのままに伝えてしまおうかという衝動に駆られる。でも、いつかの放課後に緑ちゃんに言われた「……碧はどうしたいの」という冷たい言葉が、ブレーキになる。今の緑ちゃんの表情はよく晴れた秋の朝のように爽やかで、空気にキレがあって、私みたいに悩んでいる様子はその表情からは読み取れなかった。その対比に、私は置いて行かれた気持ちになる。

 しばらく緑ちゃんの方を見ることができなくて、私は俯いてしまった。ん?と緑ちゃんが言う。「どうしたの?」

 こうやって私たちは、言葉の上では元通りに、時々冗談を言い合いながら、楽しい関係性を維持している。でも、あの日を境に、人工的な境界線が引かれ、ある一定の距離以上には近づけなくなっている気がしている。それは、私の理想とする関係性ではないと思う。もちろん、親しき仲にも礼儀ありというように、境界線が不要とは言わない。でも、ナイフの切り傷のように鮮明に、ふれあいを避けなくてもいいじゃないかと思う。ふれあいに制限を設けないでほしい、私を避けないでほしい、図書館までの道をまた一緒に歩きたい、……また、手を繋ぎたい。

 え?

 ふと顔を上げて緑ちゃんのほうを見る。

 目線が合って、バチっと火花が散る。静電気の放電のように。

 緑ちゃんは、私たちの間になんらかの電撃が加わったことに気づいているのかいないのか、その刹那のうちに私は頭をフル回転させる。

「そのためには、まずは長生きしないとね」

「……言えてるね」

「緑ちゃんの、生命線、見てあげるよ」

「……え?」

「ほら、手相だよ。えっと、緑ちゃんは右利きだから……まあどっちでもいいや、右手出して」

「碧、手相見れるの?」

「うん。独学だけど」

 何なら今ない頭をフル回転させて理論を構築している。ぷ、と緑ちゃんが吹き出す。

「独学の手相、だって。どっちでもいいや、だって。適当すぎる……」

 笑いを噛み殺しながら言う緑ちゃんに羞恥心をくすぐられるけど、気にしない。

「早くしないと、忘れちゃうから」

「はいはい。まあ碧は変人だし、しょうがないか」

 ひとしきり笑った後、渋々と、緑ちゃんは右手を差し出す。いつも手を繋いでいた彼女の右手。狙っていたわけではないけど、座っている位置関係的に自然とそうなった。さっきからパーティションで区切られた緑ちゃんの机を二人で共有してノートを見てもらっていたけど、私はこれを機に椅子を移動させて彼女にもう少し近づく。

 しっとりとした細い繊細な肌の感触が伝わってくる。仄かな熱を帯びながら、私を"風鐸"や亀ヶ塚公園に連れて行った右手。

 手のひらが見やすいように両手で支える。

「これは……」

「……どうなの?」

 生命線というのは中央の手首の方に伸びている太い線のことだろうか。親指と人差し指の間から始まって、最初の方で一回切れているものの、比較的長く伸びているようにも見える。

「ちょっと待って、私のと比べてみる」

「ぷ、それくらい予習しといてよ〜」

 いつもの私をいじる口調で緑ちゃんが言う。私は顔が熱くなるのを感じながら、自分の手相を急ぎ見る。

「……緑ちゃん、私よりは長生きかも」

「え……」

 一瞬で、緑ちゃんの顔が凍りつく。私は慌てて言う。

「いや、気のせいかも。もう一回見せて」

「……うん」

 見直すと、やっぱり緑ちゃんの生命線は私のと比べると長い。私の生命線は途中まではまっすぐと伸びているものの、途中から途切れて外側から回り込むようにして二重の弧を描きながら進み始める。私は緑ちゃんの手を離して、自分の右手を見せる。

「見て見て。私の生命線、途中から途切れて二重になってる。惑星移住でもするのかな」

「見して。……え、碧の生命線面白い」

 緑ちゃんはさっき私がしていたように、両手で私の右手を掴んでまじまじと眺める。ぷっくりとした右手が、緑ちゃんの細い指先によってなぞられる。

「……確かに、ちょっと短いかも。でも二重になってるから、合わせたら長いかも」

「……生命線って足し算していいの?」

「いいよ。私が今そうした」

 自信満々に緑ちゃんが言う。「緑ちゃんも独学じゃん」と思わず声に出てた。「私の理論はもっと系統立ってるから」リケジョの貫禄で彼女は返す。

「それに、長生きしてくれないと、私が困る」

 右手を彼女の両手で包まれながら、まっすぐ目を見て言われた。ちょっと頬が赤くなってる。

 これって。

 あの日みたいだなと思ったのと、緑ちゃんがパッと手を離したのと、彼女の後ろから「こほん」と咳払いが聞こえたのが、ほとんど同時だった。

「……図書室だからお静かに。仲良しなのはいいことだけどね」

 司書の斉藤さんに声をかけられる。銀色の眼鏡をかけた淑女で、普段は穏やかだけど図書室でのルールにはやや厳しい。

「あら、長津さんじゃない」目が合った。

「あ、はい。ごめんなさい、文芸部の私としたことが……」

「ふふ。まあテスト週間は利用者が多くなって少し騒がしくなるのは仕方のないことだけど。集中している他の人のことも配慮してあげてね」

「……はい。猛省します」

「猛省まではしなくていい。若人が権力に従順でどうするの」

はあ、と返事をする。まずい、余計なことを言った。話が長くなるやつだ。

「私は司書という立場だから注意しなくちゃいけないけど、その言葉を真に受けすぎることはないのよ。面従腹背って知ってるわよね。表面上は従っているふりをしておいて、裏では『何言ってんのあのおばさん』って笑っておけばいいのよ。まったく、今の若者は大人しすぎるわ。私が若い頃は……」

「司書さん、ちょっとうるさいっす。ミイラ取りがミイラになってるっす」

 私たちの二列前に座っていた四角い縁の眼鏡をかけた男子生徒が振り向きながら言った。

 図書室のヘビーユーザーの私は、司書の斉藤さんとは顔なじみで、時々こうして話をすることがある。知らない人からしたらルールにうるさい人という認識だろうけど、お喋りで、湯水のように話題が出てくるので一度捕まるとなかなか逃げ出せなくなってしまう。文芸部の先輩によると、斉藤さんは思想が少し「ヒダリヨリ」らしいのだが、私はその意味がなんとなくしかわかっていない。

「あらあら、ごめんなさい。可愛い若人たちを見ているとつい饒舌になってしまうの」

 斉藤さんは私たちを見回して弁明するように言う。

「お勉強も大事だけど、ちょっとした雑談の思い出が、後の人生の豊かな土壌になるのよ。それに水を差すのは心苦しいのだけれど、仕事だからね」

 緑ちゃんはうんうんと頷いている。

 ちょっとした雑談がいい思い出になる。

 私はその言葉を反芻しながら、心のうちで緑ちゃんともっとたくさん思い出を作りたいと思う。

「それじゃ」

 人差し指を唇に当てて、静かにするようにというジェスチャーをしながら、彼女は本棚の方へ歩いていく。

「勉強もキリがついたし、そろそろ帰ろっか」

 緑ちゃんが小さい声で言う。うんそうだね、と私も小さく答える。

 彼女に近い位置に移動した椅子を戻して、ノートを回収して、帰りの支度をする。

 廊下を歩きながら、手相を見ると言って緑ちゃんの手を取ったのは我ながら大胆だったなと思う。というか、そこまでして彼女の手に触れたかったのか、私は。頭が熱くなる。不自然な行動だったかもしれない。緑ちゃんはどう思っているだろうか。帰りは当然のように、手を繋いでいない。手相を見るという裏技を使ってしまったため、もう当分、彼女の手に触れることはないだろう。

 ふと隣を歩く彼女の方をみる。

 また。

 目があって、電撃のようなものが飛ぶ。

 瞬きをした残像に、彼女の睫毛の曲線が残る。

 ややあって、彼女が言う。

「ねえ碧」熱を帯びた声。

「金曜日、中間テスト終わった後、……嫌じゃなかったら、また、亀ヶ塚公園行かない?」

 返事が少し遅れてしまった。彼女の潤んだ瞳が、あまりにも美しかったから。

「……いいよ」

 全然、嫌じゃないよ。聞こえるか聞こえないかくらいの声で言う。やった、と小さな声が聞こえる。

「テスト、頑張ろうね」

「うん、絶対八割とる」

「ふふ。今の碧なら、難しくないよ」

「私の本番のポンコツ力が懸念点だけど」

「それを上回る私の指導力があるから」

 言い終わると、昇降口の三段ほどの階段を、彼女は跳び降りる。両手を広げて、笑顔でこちらを振り返る。

「完璧な着地でしょ」

 思わず頬が緩む。

「緑ちゃんそんなキャラだっけ」

「権力に反抗するジャンプだから」

 早速司書の斉藤さんの発言をネタにする緑ちゃんに吹き出してしまう。駐輪場に向かい、帰宅する道中でも、緑ちゃんの笑顔がキラキラと脳裏に焼き付いて離れない。


 

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