第9話

 緑ちゃんがあの電話のことをそれとなく話すのには驚いたけど、もしかしたら緑ちゃんなりに気を遣ってくれたのかもしれない。確かに、何か触れてはいけない話のようになるよりは、こうやってユーモアを含んだ話題にした方がいいかもしれない。それは彼女なりの気遣いだろうし、その心遣いには感謝したい。

 でも、本当にそれで良かったのかなとも思う。

 私には、緑ちゃんが多少無理をしてこのことに触れたように見えた。私たちの関係性を維持するために、彼女は何かを犠牲にして、緻密な計算の上で今回の言動をしたように思えた。心ではなく、気持ちではなく、統制された理性による行動に見えた。

 私は緑ちゃんよりは、感覚というか、感情というか、理性とは別のものを大切にして生きてきた。それほど勉強はできないし、我慢強くもないし、意志は弱いし、感情を制御するのも得意ではない。そんな私からしたら、緑ちゃんの今回の行動は、異質なものだった。

 もうちょっと、気持ちを整理する時間があってもよかったんじゃないかな。

 私にもし好きな人がいたとして、告白してフラれてしまったとしたら(想像もできないけど)、気持ちを整理するのにそれ相応の時間を必要とすると思う。それは一週間かもしれないし、一ヶ月かもしれないし、一年かもしれないし、もしかしたらもっとかもしれない。きっと、一晩で気持ちの整理がつくということはないだろう。

 もしかしたら、頭の回転の速い緑ちゃんなら、一晩が私の一週間に相当するかもしれないけど、同じ高校生なのに、気持ちの整理に必要な時間にそんなに差が生まれることはあるだろうか。いや、ないだろう。だとしたら、理性で感情を制御して、急いで蓋をする必要はないんじゃないかなと思う――付き合うのを断った私が言えることではないかもしれないけど。

 というよりは、断った側の立場である私が、まだ気持ちの整理がついていない。どう返事をするか、どうやって伝えるか、一週間かけて悩んだけれど、実際に伝える段になって、考えるのとはまた別のエネルギーが必要だということが分かった。考えを整理するのと、それを実際に声に出して人に伝えるのとでは、また違う疲労感があった。だから昨日は疲れ果てて眠ってしまったのだ。

 私でさえ疲労し、気持ちの整理ができていないのだから、告白をして、一週間私の返事を待ってくれた緑ちゃんの疲れ、感情の乱れは相当なものだと思う。それを理性で封印して、昨日の出来事のフォローとこれからの関係性のために行動した緑ちゃんには、もはや怖ささえある。こういう時こそ緑ちゃんを支えてあげたいけど、私は当事者である以上、あまり行動できない。なんだかもどかしさを感じる。

 友達、だから。

 昨日の電話の中で、おばあちゃんになるまで友達でいることを掲げた。ただの友達というのは寂しい感じがするし、「親友」というのも、それはそれでいいのだけど、なんだか具体性に欠ける気がして、おばあちゃんになるまでという表現にした。でも、一方で、この表現は百パーセントではないなとも思っていた。私の気持ちを表す言葉として、間違ってはいないけど、十分ではないように思えた。友情が長く続くことは理想の一つだけど、もう少し深いところまで通じ合っている関係性を表現し切れていない気がした。おばあちゃんになるまで友達でいるのは、だらだらと友情を維持してお互い健康に過ごしていれば達成できそうな目標だから、それだけじゃなくて、お互いの理解の深さも理想の要素として含めたかった。でも、付き合うというところまで行ってしまうと、理解の深さの要素は満たすけれど、時間的な長さに制限がかかってしまう――おばあちゃんになるまで付き合い続けることは、少なくとも今の私には考えられなかった。


 そういった種々のもやもやを感じつつ、私は日々を過ごしていた。

 緑ちゃんは今までと同じ関係性を維持しようとしているように見えた。部活のない放課後は図書室で化学を教えてくれたし、体育の後は団扇で私を扇ぎながら雑談に付き合ってくれた。移動教室の時は一緒に行ってくれたし、宿題をするのを忘れた時は見せてくれた。

 ただ、手を繋ぐことはなくなった。以前まではあったスキンシップのようなものも、不自然なくらいになくなった。そして、二人で亀橋図書館に行くこともなくなった。

 強力な理性が緑ちゃんを駆動しているようだった。私はそれを感じる出来事があるたびに、悲しさと申し訳なさを覚えた。もう少し、感情とか、気持ちとか、ちょっとした欲とかを、見せてくれてもいいのに。言動も行動も、抑制しないで、思ったまま、したいと思ったままに、表現してくれていいのに。そんな彼女を見るたびに寂しくなったけど、そもそものきっかけを作ったのは私だし、付き合わないという立場を変えることはできなかった。


 放課後の掃除当番の週になった。緑ちゃんと私は同じ班で、体育館への渡り廊下と階段が掃除場所だった。四人班だったので、緑ちゃんと私は渡り廊下、あとの二人は階段の掃除で役割を分担した。渡り廊下はそれなりの広さがあるので、私たちは黙々と埃を箒で集めた。片付けが終わって、二人はそのまま部活で体育館に行った。

「緑ちゃん、私このあと亀橋図書館行くけど、一緒に行く?」

「……うーん、私はやめとこうかな、また今度ね」

「そっか、じゃあ途中まで一緒に行こうね」

 なんだか、夏休み前半を思い出す。メッセージを送っても、今度ね、といって毎回のように断られた。その時とは違うのは、今は教室で毎日顔を合わせること。――もし、今が長期休みだったら、私は緑ちゃんと会えていただろうか。

 私は心の中が曇っていくのを感じた。外は秋晴れの様相だけど、心の中の天気はどんよりと黒く厚い雲が広がり、今にも雨が降りそうである。

 渡り廊下は、学年集会があったり体育がある時は時はみんなが通るけど、下駄箱を通って靴を回収して外に出た方が構造上近いので、部活のある人はあまり通らない。人通りが少ないのを確認した私は、一歩踏み込んでみることにした。

「……手、繋がない?」

 そう言うと、緑ちゃんは驚いた顔を一瞬浮かべた。

 私は心の中がちりちりとするのを感じながら、沈黙に耐える。

「……碧は、繋ぎたいの?」

「うん……前は、よく繋いでたよね?」

 少し彼女は考えてから、小さい声で言った。

「そうだけど……やめとこう」

 ぽつり、ぽつりと、雨が降り始める。

「そっか……手、繋ぐの、友達だったら、普通かと思ったけど」

 心象風景に引っ張られて、少し反抗する気持ちで小さい声で返す。そして、すぐに後悔する。隣の緑ちゃんが、とても悲しそうな顔を浮かべていたから。

「……碧は、どうしたいの」

 それは責めるようにも聞こえたし、呆れたようにも聞こえたし、悲しい響きをも内包していた。私の言動は軽率だった。

「……ごめん」

 私は緑ちゃんが手を繋いでいる時の満足げな顔が好きだった。彼女としては表情を抑えているつもりだっただろうけど、私には分かっていた。そして、私と手を繋ぐことで、こんなに喜んでくれる人がいるんだというのは、私にとっても喜びだった。告白される前は、それはあくまで親密な友情を確認する行為として捉えていたけど、それに他の意味があったとしても、別に嫌ではなかった。だから、手を繋ぐことも、今まで通り続けたかったけど、彼女への配慮が足りなかった。

 私たちはしばらく無言で歩いていた。吹奏楽部が音出しを始めている。階段を一段ずつ降りていく。

「……私も、ごめん」

 緑ちゃんが、ぽつりと呟いた。

「でもね、前みたいにはできない。なんかね、バランスが崩れちゃう気がするから」

「……バランス?」

「今ね、気持ちがあっちに行ったりこっちに行ったりするのを、頑張って抑えてるの。だから、手を繋いだら、それが壊れちゃいそうで……って、何言ってるかわからないよね」

 彼女は小さく笑う。久しぶりに、彼女の本音に触れた感じがして、少し嬉しい。そして同時に、申し訳なさも頭を覆う。

「ううん、緑ちゃんがすごく頑張ってるのは知ってるよ」

 言いながら、配慮が足りている発言になっているか、すごく不安になった。でも、緑ちゃんは穏やかな表情のままだった。

「……でも、あんまり無理しないでね。……甘えたい時は、甘えてくれていいから」

 この変人あおむしでよかったらね、と付け加えようと思ったけど、やめた。緑ちゃんが、ほんのりと顔を赤くしていたから。

「……うぅ、碧のいじわる……」

「あれ、いじわるになってた? ごめん」

「時々、無自覚にやさしいのも、ずるい……」

「え? 私何かしくじった?」

「ううん、碧は、そのままでいい」

「いじわるなのに?」

「……うん、それが、むしろ、いい」

「……緑ちゃん、難しいなぁ」

 ふふ、と笑う緑ちゃん。笑いながら、目尻の端で涙が光っている。きらきらと光る彼女の表情を、私は直視できない。

 靴を履き替えて、外に出る。先に外に出た緑ちゃんが、上を見ながら、空に向かって右手を掲げている。手のひらを広げて、空を掴み取るように、ぎゅっと握り締める。

「私、もうちょっと頑張るから」

 独り言のように、彼女は宣言する。そして振り返りながら、遅れて昇降口を出た私を迎える。吹奏楽部の合奏の音と、運動部の掛け声が、残暑の熱に混じって、私たちを包み込む。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る