第21話
圧巻のイルカショーを見てから、私たちは残りの展示を見にいく。北米、南米の海に生息する生き物たちを見ながら、私は用意していた豆知識を披露する。異国の地から連れてこられた生き物たちは、ここがどこかを知らないままに、水槽の中を気ままに泳いでいる。
お互いの手は組んだ状態で繋がれている。イルカショーの時からずっと。よりお互いの心理的距離が近づいた事実を、そのまま受け入れるには照れくさくて、私はそれを誤魔化すように話題を振る。沈黙があると、彼女の細い指の感触とほのかな熱だけが純粋に存在してしまう。それと対峙するには、まだ心の準備が足りない。私はその断片的な沈黙の中で、徐々に彼女の存在に慣れていく。家に連れて帰った金魚に少しずつ水槽の水を与え、慣れさせるみたいに。
私が話をすると、彼女は口ではいつものクールな口調でツッコミを入れるけれど、表情はとても穏やかで、幸せそのものに見える。そんな様子を指摘する野暮なことはしないけど、意識するとこちらも照れてしまう。余裕のある大人びた彼女の佇まいは、特有の甘い香りを伴って、蠱惑的な雰囲気を漂わせている。春の虫を呼び寄せる美しい花の誘惑は、他ならぬ私自身に向けられている。彼女に組み込まれた手は、もはや離れることを許してくれない。水槽の澄んだ青を見つめながら、私はじわじわと蝕まれていく。
「ぷはー。じっくり見たから疲れたねぇ」
喫茶店でメロンソーダを飲む。冷たくてシュワシュワとした口当たりが、ちょっとした非日常を演出する。
「そうだね。一生分の魚を見た気がする」
もっと魚見てよ、と私がツッコミを入れると、彼女は口元に手を当ててくすくすと笑う。とっても幸せそう。ちなみに緑ちゃんはメロンソーダではなくかめはまサイダーという青い飲み物を飲んでいる。緑色の飲みものじゃないんだ。
「このあと、夕焼け見に行くから」
「うん、時間通りだね」
「ふふん、私の時間管理力に恐れ入ったか」
得意そうに言う緑ちゃんに私は同意する。
「歩くスピードと距離、一つの展示にかける時間から計算したの」
「え、うそ、すごい緻密な計算だった!?」
私が驚くと、彼女はその様子を楽しんでから、「たまたまだけど」と付け加えた。弄ばれてる感じも、もう慣れた。
「晴れてよかった」
緑ちゃんはしみじみと言う。「正直、雨の時のプランはそんなに考えてなかったから」
「あの計画魔の緑ちゃんが?」
「絶対晴れると思ったから」
理論派かと思ったら熱血派だった。
「私くらいになると、天気の操作もできる」
「さすが師匠。表情の操作は苦手でも天気の操作はできるのですね」
緑ちゃんの顔が時々とても赤くなることをいじると、彼女はその意図に気づいてうっすらと微笑んだ後、「そういう鋭いいじりができるように育てたのも私」と得意そうに言った。緑ちゃんの頭の回転の速さにはいつも感心する。
やや影が長くなり、日光がなければ少し肌寒い公園を、恋人繋ぎで歩く。一日中水族館を見た疲労感を、穏やかな風と彼女の手のひらが中和する。比較的騒がしかった館内とは違って、公園内は静謐だった。
「えっと、こっちかな」
一度手を解いてしおりを見ながら緑ちゃんが方向を指差す。そして当然のように再び手を繋がれ、指が織り込まれる。緩やかな坂を登っていく。もう少ししたら、紅葉が綺麗になりそうな木々がある。そして一通り葉を地面に落として、木枯らしがそれを運んだら、冬が来る。
私は緑ちゃんのほうを見る。いつもなら何かを言うタイミングだけど、何も言わない。ただ静かに、彼女の手に導かれる。流されるままに。静かな空間に聞こえる木々のさざめきと、私たちの足音が心地いい。
緑ちゃんの綺麗な横顔が、まっすぐと前を見据えているのを私は盗み見る。その目線の先には未来があるように見える。決して過去を振り返らず、ただ前だけを見ている。そして、彼女は努力を続ける。一緒に勉強をした日々を思い出す。
私は、緑ちゃんのそういうところが好きだ。
まっすぐで実直な性格。でも私には気を許して、変人なところをいじってくれる。自分の気持ちに正直に向き合って、私を恋人に選んでくれた。水族館に行くことを企画し、楽しいデートにしてくれた。
なんだか、すごく幸せである。こんなに幸せになっていいんだろうかって心配になるくらい。
そんなことをしみじみ感じながら歩いていると、視界のひらけたところについた。
どこか亀塚公園の高台を思わせる場所。でも広がる景色は大海原だ。手前に公園が続き、砂浜があって、青い海と水平線が広がっている。そして太陽が、次第に赤みを帯びようとしている。
「わぁ。綺麗なところだね」
「でしょ。その割に人が少なくていいでしょ」
緑ちゃんが得意そうに言う。
相変わらず彼女は人気が少なくて景色がいいところが好きだな、と思う。そういう彼女の場所のこだわりも、私は結構好きである。
「あそこ、船が見える」
「え? あ、ほんとだ」
普段あまり遠くを見ないから、目の訓練になりそう。
「方角的には、向こうが亀崎半島のほうかな。さすがに見えないけど」
「ふうん、わ、鳥が飛んでる」
つがいだろうか。二羽がダンスを踊るように同じ動きをして空を自在に飛び回る。
「綺麗だね」
「そうだね」
「そろそろ夕焼けが始まると思う」
「うん」
意外と一瞬なんだよね、と私が初日の出の記憶から言おうと思った時、緑ちゃんの顔が少し赤くなっていることに気がついた。
陽の光のせいだけではないと思う。
私は気がつかなかったふりをして、太陽の方を眺める。
「ねえ碧」
なに? と私は答える。緑ちゃんは、意を決したように口を小さく開く。
「……ハグ、してもいい?」
私は少しだけ考える。
「……ここで?」
「……うん」
そして、彼女は公園の方を見て言う。
「……ほら、見て。あまり人いないし、いたとしても、夕焼けを見てて私たちを見ている人なんていない」
いたとしても、誰も私たちのこと知らないでしょ?
いたずらっぽく微笑む彼女の瞳は、夕日に照らされて宝石のように光っている。
ずっと見ていると、瞳の奥に吸い込まれて、出られなくなりそう。私は自分の直感を振り払うように言う。
「……いいよ」
手が解かれ、すぐに彼女に抱きしめられる。甘い香りに閉じ込められてしまった虫みたい。その感触は雲の上のお布団のように優しさに包まれている。
「今日、楽しかったね」
耳元で囁かれる緑ちゃんの声音を、確かめるように脳内で反響させる。
「うん、楽しかった! 豆知識もいっぱい披露できたし」
少し間をおいて、イルカショーのハートマークも、よかったと伝える。彼女は嬉しそうな声をあげて、ハグの力が一瞬強くなる。
「碧と来られてよかった」
「うん、私も」
迷わずに私も答える。緑ちゃんの顔が見えないから、耳元で告白するようにして。
それから、しばらく時間が経つ。緑ちゃんの手は私の髪を撫で、肩に触れ、背中を優しく撫でて、止まった。夕日は、ピークを超えただろうか。
そんなことを考えていた時。
「…………碧、キスしたい」
耳元で告げられる。
「……え?」
「……嫌?」
少し考える。
「うーん、正直、わかんない、かも」
誰かとそういうことをすることについて、今までそれほど真剣に考えたことがなかった。普通、考えるものなのだろうか。だから、正直にそう伝えた。
「じゃあ、……嫌だったら、避けていいから」
緑ちゃんはハグの力を緩め、私の顔と対峙した。
あの日の、ルイボスティーみたいに赤い顔が目の前にあった。あの時はこんな距離でじっくりと見なかったけど、目は潤んで、今にも泣き出しそうに見える。
「……嫌では、ないと思う。たぶん」
自分のことだけど、自信なく答える。
緑ちゃんはそれを聞いてから、ゆっくりと顔を近づける。長い睫毛が静かに閉じられる。彼女の艶やかな唇を盗み見て、私も目を閉じる。
…………触れた。
柔らかくて艶やかな感触が私の唇に落ちた時、私の中で何かが大きく転回した。大地がひっくり返るほどの変容だった。私は今まで、この感触、キスの感触と、緑ちゃんという存在を、重ねて考えたことがなかった。それらは互いに別の領域で、論理積は空集合だった。その認識が、この瞬間誤りだと気づいた。私は、緑ちゃんとキスをしてもいいんだ。キスの領域と彼女の領域が互いに侵食しあって、大海原みたいに領域が広がっていく。私にとって驚きの発見だった。
「え……」
驚きのあまり、思わず声が出た。緑ちゃんが、心配そうにこちらを伺う。
「ごめん……やっぱり、嫌だった?」
私は彼女の肩に顔を埋める。直視なんてできなかった。
「……嫌じゃないよ、全然」
もう一度、嫌じゃないよと言う代わりに、「ただちょっと驚いただけ」と伝えた。
「……そう。後になって、やっぱり嫌だと思ったら、言ってね」
消え入りそうな声で、もうしないからと彼女は付け加えた。
緑ちゃんとハグをしながら、私は即座に否定する。
「ううん、それは、大丈夫だと思うよ」
そして、彼女の香りに包まれながら、私は甘い余韻に浸る。
「……ねえ、夕焼け、すごく綺麗」
緑ちゃんがハグをしたまま海の方を見て言うので、私も一度顔を離してそちらを見る。
見事な夕日が半分以上沈みかけていて、海を朱色に染め上げていた。やや強い風が吹くが、私は緑ちゃんの体温で守られる。そんな夕日を見ていると、私は一日が終わることに対する焦りのようなものを感じる。緑ちゃんに包まれながらも、少しずつ闇という名の終焉が訪れようとしている。そんな気持ちと、さっきの感触を忘れたくない気持ちが混ぜられ、撹拌していく。
「……緑ちゃん」
「……ん?」
優しく、彼女は答えてくれる。
その瞳に吸い寄せられるように。
「…………もう一度、してもらってもいい?」
私は、おかわりを要求してしまった。
緑ちゃんの顔にはたちまち動揺が現れる。
「え……え……」
「……嫌?」
全力で首を横に振る緑ちゃん。「でも……」
「でも?」
「……これは、プランにないし」
真面目なトーンで言う緑ちゃんが可愛くて、思わず笑ってしまう。
「逆にさっきのは、プラン通りだったんだ」
耳元で、あえていじる口調で言ってみる。緑ちゃんにいつもやられている技の、反転魔法だ。
「うう……」
「日が暮れちゃうよ?」
私がそう言うと、彼女はしぶしぶ頷いた。
再び目が合って、吸い寄せられるように、唇を重ねた。
その感触を確かめるように、数回触れては離すという行為を繰り返した。繰り返すたびに少しずつ、緑ちゃんという存在が私自身に刻まれる感覚が、癖になりそうだった。
「……ふふ。ありがと」
今日という楽しい日を作ってくれて。美しい生命の神秘や、自然の豊かさを見せてくれて。それに、緑ちゃんとの関係性に新たな可能性を示してくれて。
様々な意味を込めて囁くと、彼女は少し震えて、私を抱きしめる力が強くなった。
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