第5話
雨の日は自転車通学はせず、お母さんに車で送り迎えをしてもらっている。お母さんのパートは午後からなので、お仕事が終わってから、迎えにきてもらう。それまで時間があるので、部活がない日は私は図書室で本を読むか、亀橋図書館で本を読む。
今日は朝は雨が降っていたが、午後からは次第に晴れてきた。放課後は亀橋図書館に行って本を読もうかな。その話を緑ちゃんにすると、「私も行く」とのこと。
「えっと、できれば、今日は化学の特訓はお休みで、読みたい本があるんだけど……」
「いいよ。私は隣で勉強してるから」
「はうぅ。隣で同級生が勉強してる中、小説を読む背徳感……ぞくぞくしてきた」
「何言ってるんだか」
私は最近よく緑ちゃんに化学の特訓を受けている。効果は
でもその特訓の代償として、読書の時間が減っていて、今日はそれを解消したかったのだ。世の中何事もトレードオフってあるよね。
ふと、緑ちゃんが言った。
「でも、そうやって夢中になれるものがあるって、素敵なことだと思う」
私の方は見ずに、帰りの支度をしている緑ちゃんのその台詞を聞いて、私は彼女の顔をまじまじと眺めてしまった。
「……なに?」
「……嬉しい」
授業中お腹の音を鳴らしているはらぺこあおむしであり、化学の問題と答えの過程を理屈を理解せずに丸暗記している出来のよろしくない学生でもあり、人から変人と言われいじられキャラの私が、唯一誇りにしている読書という行為について、その価値を認めてくれることが、なんだかすごく嬉しかったのである。
そのことを矢継ぎ早に緑ちゃんに伝えると、
「わかった、わかったから。そんなに喜ばれると思わなかった。……って、はらぺこあおむしってそういうことだったんだ……」
「え、倉須君言ってなかったの」
「彼、意外に口は固いみたい」
「ふうん、そうなんだ」
「まあ、私的には、そのはらぺこあおむしのエピソードより、今の『自分からいじられネタを提供した』っていうことの方が、碧らしくていじり甲斐がありそう」
「わ……確かに……これはいじりのプロだ……」
「ふふ」
嬉しそうに笑う緑ちゃん。いつもなら自分からいじられネタを提供してしまった己の阿呆さ加減を恨むところだけど、さっき緑ちゃんに「素敵なことだと思う」と言われたことがまだ残っていて、心は暖かく、こんな言葉が口をついて出た。
「まぁ、大好きな緑ちゃんならいじられてもいいか」
返答がないので不思議に思って緑ちゃんの顔を見ると、頬を中心に桃のようにほんのり赤く染められていた。
「……あれ、私何か変なこと言った?」
「いや、うん、大丈夫、わかった、うん」
なにが大丈夫で、なにがわかったのか、私にはよくわからなかったけど、あまり気にしないようにした。
緑ちゃんをいじるためのヒントがこういうところに隠されていたことに、私はまだ気づいていない。
「碧は今日雨だから、車で来たのよね」
昇降口で靴を履きながら、私は「そうだよ」と答える。
「傘は?」
「危ない、忘れるところだった、ありがと」
トコトコと外に出ようとした私に、緑ちゃんが指摘してくれる。私一人だと確実に忘れていたから、この注意力のある友人の存在に感謝する。
「じゃあ、自転車、今日はないんだ。はい」
自然な流れで、右手が差し出される。一瞬「?」となったけど、手を繋ぎたいんだ、とすぐに解釈し、私は傘を右手に持ち替えて、左手で手を繋ぐ。
放課後の雨上がりの外は、水たまりがキラキラと光を反射して輝いている。目線を上げれば雲の切れ目からは青空が垣間見える。常緑樹の葉に水滴がたまり、二つの水滴が時折吸い寄せられるようにくっついて、雫が葉脈に沿って地面へと落ちていく。湿度が高く、少し蒸し暑い。
蒸し暑くても、手を繋ぎたがるんだ、と少し不思議に思うけど、もっと暑かった今年の夏休みでも手を繋いでいたから、緑ちゃんには関係ないのかもしれない。でも、その不思議さは拭えない。緑ちゃんは教室にいる時はクールな学級書記、という感じだから、手を繋ぐのが好きだとは誰も思わないだろう。しかも、まだ校舎の中だから、誰かに見られる可能性は十分ある。緑ちゃんはあまり目立つのが好きではないだろうから、この行動はやはり少し不思議、藤子・F・不二雄先生の言うところの「SF」だ。
特に言葉を交わすこともなく、正門から外に出た。そこで、私は聞いてみることにした。
「緑ちゃん、手、繋ぐの好きだよね」
「……うん」
小さく、彼女は答える。
「他の人とも、こうやって歩くの?」
「っ……、違う、碧だけ」
「そうなんだ」
正直、緑ちゃんの交友関係を全て把握しているわけではもちろんないけれど、そうなんだろうとは思っていた。緑ちゃんは誰とでも仲良くできるし、部活の同期含めて友達は多いほうだと思うけど、二人でいる時間としては、私が一番長いと思っているし、それを少し確認してみたかった。
私と二人でいる時だけ、手を繋ぎたがる緑ちゃん。
ちょっとだけ、冗談のつもりで言ってみる。
「緑ちゃん、私のこと好きだよね」
しばらくして、
「……うん、好きだよ?」
と照れた表情でこちらを伺うように言った。思ったより率直な返答が返ってきて、私は気恥ずかしくなるけれど、繋がれた手が彼女から離れることを拒む。緑ちゃんはそのまま私の顔を覗き込もうとするけど、私は直視できない。
そして、頭の中で、今まで彼女が私にしてくれた親切を思い出す。それと同時かすぐ後に、緑ちゃんに避けられていた夏休み前半が頭に浮かぶ。
諦めて前を向いた彼女は、確固とした口調で言う。
「……別に、冗談じゃないし、私このことに関しては、冗談とか、言わないから」
「……じゃあさ、蒸し返すようで悪いんだけど」
ずっともやもやしていたこと。聞きたくても聞けずに、あるいは聞いたとしてもはぐらかされてしまうようなこと。緑ちゃんの優しさ、親切と、一方で、距離を置こうとする、壁のようなもの、跳ね返そうとする斥力のようなもの。その正体を、少し知りたくなった。それは文学的な興味とも言えるし、心理学的な興味とも言えるし、人間一般に対する興味とも言えるし、もちろん、緑ちゃん個人に対する興味でもある。
「……夏休み前半、どうして私を避けてたの? そのあと、どうして優しくしてくれるようになったの?」
彼女はこちらを一瞥し、前を向き、すぐに返事はせず、一つ息を吐いた。たまらず私は弁明する。
「いや、別に、無理に答える必要はないけど……」
「聞きたい?」
「え?」
「聞きたいなら、話すけど」
前を向きながら、頬を少し赤くして、緑ちゃんは言う。
どうしよう、と一瞬悩んだけど、このままずっともやもやするのは嫌だ、と思って、私は返事をした。
「……うん、話してほしい」
「……じゃあ、目的地変更。亀ヶ塚公園行くから」
そうして、緑ちゃんの手に導かれるようにして、私たちは図書館を通り過ぎた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます