第17話

 碧を送ってから、しんとした家に戻る。いつものことではあるけれど、さっきまでの楽しい時間が、この家の静けさを際立たせる。私は皿を洗い、炊飯器をセットし、両親の帰宅を待つ。

 自分の部屋に戻る。さっきまでこの空間に碧がいた。その事実だけで、胸が熱くなる。今日は碧にたくさん甘えてしまった。碧は優しいから、そんな私も受け入れてくれる。私もそれがわかっているから、多少強引な形になっても、甘えてしまう。

 碧がもたれかかっていたベッドの側面に触れる。さっきまで碧がここにいた。顔を近づけると、碧の髪の香りが残っていた。あんなに甘い時間は今まで味わったことがなかった。碧に髪を撫でられながら、私は少しずつ溶けていった。名残惜しくて、碧が呆れるまではくっついていようと思った。でも碧は、私を拒まなかった。優しい碧にどこまでも甘えてしまいそうになって、私は自分の意思で碧から離れた。あれ以上くっついていたらどうにかなってしまいそうだったから。

 何度か「碧ちゃん」と呼んでしまった気がする。心の中で彼女に甘える時は、ずっとちゃん付けで呼んでいた。それが無意識のうちに口に出ていた。少し怖いけど、碧は鈍感だから気づいていないと信じよう。

 少なくとも今日はこれ以上、他のことに手をつけられそうになかった。課題も予習も終わらせた。あとは、碧の香りや体温や言動を思い出しながら、甘い世界に浸りたい。

 愚直に努力を続けた私に、神様が贈り物をくれたのだと、信じながら。


 ふとした瞬間に彼女と目が合うと、彼女は特別な微笑みをたたえながら私に手を振る。私が彼女をいじると、彼女はうわぁんと言いながらもどこか楽しそうにしている。目元にアイラインが引かれ、より魅力的に見えるけど、碧に好意を寄せている男子の目線が気になる。だけど、それは週末の水族館デートに向けた練習だと知っているから、私は何も言わない。「可愛い」と私が言うと、「緑ちゃんのほうが綺麗だよ」と返ってくる。もう、やめてよ、などと言いながらも、私は幸せを噛みしめる。

 体育祭の練習が本格化する。お互い文化部の私たちは運動は得意ではないから、少し憂鬱。それでも、鉢巻きを巻いた碧は新鮮だし、真珠のように綺麗な肌を覗かせる碧の体操着姿は何度見てもいい。碧はなぜか私のうなじを褒めてくれた。それ以来ずっとポニテにしている。わざとらしく、休み時間に髪を結んだりして。そういう時間がしみじみと楽しい。

 楽しそうに二人三脚を練習している人たちをみて、碧と私で出ていたらどうなっていたかと想像する。二人とも足は遅いから、あまりなさそうな線だけど。碧と密着しながら走るのは、どんな気持ちだろう。碧のことだから、一回は派手に転びそうだな。それはそれでいじれるから私的には美味しいけど、碧がケガをするのは嫌だな。こうしてコートの外でぼんやり二人で練習の様子を見ているのが性に合っている気がする。

 授業中も、油断するとあの日碧に甘えたことを思い出してしまう。碧が私の髪を撫でる手の感触。背中から感じる体温。健康的な膨らみ。髪の香り。首筋の白さ。包容力の塊だと思う。勝手気ままに私の感情を揺さぶっておいて、無限の包容力を見せつけるなんて、ずるいと思う。でもその優しさに甘える私も同じくらい、ずるいのかもしれない。

 黄倉さんに、「良いことでもあった?」と聞かれる。私は碧とのことをすべて打ち明けてしまいたい欲求に駆られる。碧のことだったらずっと語ることができるし、聞き上手な彼女に乗せられたら数時間は軽くワープする。でも私は、言わない。本当に大事なことは、一人でいるときに一人で味わう。幼稚園児の時、母親の宝石を玩具箱に隠し、一人で眺めていたことを思い出す。見つかって、怒られたけど、一人で宝石と対峙していたあの瞬間は思い出になっている。


「彼氏でもできた?」

「ううん、まさか」

「じゃあ、碧ちゃんと仲良くなったとか」

「……今までもそれなりに仲良いけど」

「ふうん、でもなんか匂うんだよなぁ。女の勘だけど」

「みなみの勘なんてあてにならないでしょ」

 横で赤星りささんが言う。

「じゃありさはどう思うのさ、この緑茶さんの変化について」

「え〜? そんなに前から変わんなくない?」

「うわぁ。まありさは私が髪切っても気づいてくれないしなぁ」

「みなみも私がネイル変えたの気づいてくれないじゃん」

「いや、三回に一回は気付いてるでしょ。打率三割あったら優秀だから、ね?」

「え……ええ」野球の話だと思うけどあまりよくわからないから曖昧な返事になる。

「てか私、緑の恋愛の話とか聞いたことない」

「私は碧推しのオタクだから」

「ふぅん。あ、そういえば、長津さん最近メイクしてるかも」

「ああ、そういえば、碧ちゃんもちょい変わったよね。……さては緑茶さんの入れ知恵だったりして。最近勉強も教えてるんでしょ?」

 意外とみなみさんの勘は馬鹿にできないな。彼女は友人の変化をよく見ているようだ。

「まぁそうだけど。……やっぱり、推しの可愛いとこ、みたいでしょ」

「あ、それわかる。私もこの前孝太郎に教えた日焼け止め、使ってくれてるみたいで可愛かったなぁ」

「いや、りさの推しの話はいいから」

「は? スナバで10時間は語れるけど」

「どんだけ粘るつもりなのよ……」

「そういうみなみはどうなのよ。明斗と仲良いみたいじゃん」

「いや、あれはそういうんじゃないから」

「うわ、『あれ』とか言っちゃって。スナバで二人でいるの、目撃情報もあるんですけど〜」

「あれは勉強教えてもらってただけだから」

「勉強なら緑に教えてもらったら〜? わざわざ明斗誘う〜?」

「緑茶さんは偏差値高すぎて逆に参考にならないから明斗くらいのがちょうどいいの。この女、性格悪いよぉ」

 みなみさんが助けを求めてくる。

「倉須くんは、磨けば光ると思うよ」

「ほら、緑もそう言ってるしさ」

「二人とも、すーぐ恋愛話にもってくの良くないぞ?」

 着替え終わって廊下に出るタイミングで、小林さんたちと一緒にいる碧と入れ違いになる。私を見た碧は、パッと手を振る。イェーイ、と言いながら、後ろから出てきたみなみさんも手を振り返す。

「やっぱ碧ちゃん、可愛いね、癖になりそう」

「……でしょ。私が育てた、私の推しだから」

「……でもやっぱり、緑茶さんも変わったと思うよ?」

 そうかも、と小さく応える。碧と会う前は、もう少し人との間に壁を作っていたから。こうして黄倉みなみさんや赤星りささんと仲良くしているのも、私が碧と関わる中で変わっていったから。

 関係性は、時間のゆりかごの中で、少しずつ変わっていく。過去の思い出や未来への希望が入り混じり、刻一刻と変容していく。そうした変化を楽しみたいし、私もそういう変化を起こしたい。その相手が、私の好きな碧だったら、これ以上望むものはない。たとえ三ヶ月の期限付きの関係性だとしても。

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