第25話
その週の金曜日、私は図書館で碧と勉強をしてから、ベンチに座って暖かいカフェオレを飲みながら話をしていた。夏のあの日、碧が鈴木くんと並んで座っていたベンチと同じで、私は季節の移ろいを感じる。少し肌寒いけど、暖かい飲み物で手元はポカポカと暖かい。
世間話が一通り済んでから、私は赤星さんとの一件の話をした。私は碧との平穏な幸せを守るために、先回りして赤星さんと話をして"問題"の解決をしようと思ったけど、その作為を彼女に見抜かれていたこと。でもそれは悪意によるものではないことも、彼女は認めてくれて、だからこそ困惑した表情を浮かべていたこと。何が正解なのか、わからないけど、人の感情は制御できないのではないかと言われたこと。
「あとね、……苗字呼びも、やめてほしいって言われた」
「あー、言われてみれば、いつも一緒にいるのに、緑ちゃん苗字で呼んでたよね」
「そう。それが寂しいって。私言われるまで、気づいてなかった」
「えー、そうなの?」
「……うん。私、碧に夢中で、あんまり周りが見えていなかったかもしれない」
「ふふ。……私的には、ちょっと嬉しいけど」
碧は両手でココアの缶を包みながら、足をぱたぱたと動かした。長い黒の靴下とスカートの間の白い足に、無意識のうちに目線が吸い寄せられているのに気づいて、私は目を逸らす。
私個人としては、感情は制御するものだった。少なくとも、自分の感情は自分で制御できるものだと思っていた。例外的に、碧に対する恋愛感情は、制御できるものではなかった。自分の中に閉じ込めておくことはできなかった。だから、理性の力を駆使して、彼女に訴えかけた。そうして、私の有り余る感情を制御できる形に、世界の状態を変化させた。あるいは最初から、話せばわかってくれる人を好きになっていたのかもしれない。
そして、碧と付き合うことができた。私の中では、この出来事は理性の勝利だった。感情の向かう先に、理性を動かして自分を、そして周りの人を変えていくことが、私の世界との向き合い方だった。でも、りささんとの話で、その考えに自信が持てなくなった。彼女は、私から見れば、感情を理性よりも重んじているように思えた。泣きたい時に泣いて、怒りたい時に怒って、笑いたい時に笑う。それは一見弱いようでいて、しなやかで、強い。私の考え方は、一見丈夫なようでいて、イオン結晶みたいに叩くと簡単に割れてしまうかもしれない。あの夏の日、碧が鈴木くんと楽しそうに話しているのを見て、何かが崩れたみたいに。
しばらく私が無言でいるのを、碧は興味深そうに見ていた。
「今日は考えることがいつもより多いみたいだね」
そっと、暖かい言葉を添えてくれる。冷たくなろうとした感情を元に戻すのを、手伝ってもらったよう。
「ごめんね、ちょっと、考えがまとまらなくて」
「ううん。私は静かな時間も好きだよ」
この時間を丸ごと肯定してくれる。その優しさが、逆になぜかほろ苦く感じる。
碧はきっと、りささんと同じだ。感情を抑制したり、人を都合のいいように変えようとしたり、そういうことはしない。根が楽観的だし、たまに勘がいいし、何より優しい。
だから、計算高い私に、つけ込まれた。告白をされて、悩んで、断ったと思ったら、そっけない態度を取られたり、優しくされたりして、揺さぶられた。だから今私たちは、付き合っている。
そう思った時、足元が冷たくなった。初めて、自分のした行動が怖くなった。私は私なりにベストを尽くしてきたつもりだけど、碧のためになっているのか、わからなくなった。私という存在が彼女に与える影響、碧を変えてしまうこと。何も考えていない時はそうした変化も楽しんでいたけど、その怖さを感じ始めた。
その時、碧が「あ」と言ったので、その視線の先を見た。鈴木くんがいた。図書館の出口に向かう通路を彼は一人で歩いていて、私たちと目が合った。碧が小さく手を振る。
これ、あの日の逆だ。私がそう気がついた時には、彼は気恥ずかしそうに手を上げて、出口の方へ離れていった。
あの日は彼がここにいて、私が彼の場所にいた。あの日と違うのは、碧が彼を呼び寄せなかったこと。そしてそれはきっと、隣に私がいるからだ。碧は碧なりに、二人の時間を大切にしてくれている。
本当は、私と彼の場所は、逆だったかもしれないのに。
私は本当は一人で、この感情に向き合うべきだったのかもしれない。暗い部屋で、一人で、岩のような氷とともに。道具はそのために使うべきだったのかもしれない。
「ねえ」
空になった缶は仄かな熱が残るばかりだった。
「……碧は、私で良かったの?」
「なぁに、それ」
彼女は楽しそうに、くすくすと笑った。
「もちろん……だってね」
私は、彼女の唇の動きを見ていた。躑躅色。私が教えたリップ。胸が締め付けられる。
「……幸せだよ?」
その時思い出した。これはどうしようもない力で、抗えない力で、本能を刺激する源だった。こんなの、制御できるわけがない。その中、必死に、今思えば滑稽に、できることをやろうとしたのだ。
過去の私を、責められない。
その代わり、世界を書き換えた代償は、いつか払う必要がある。
「緑ちゃん、元気なくなっちゃった?」
心配そうに、覗き込む碧。
「……とは、違うと思う。色々考えちゃって」
「そっか」
そして彼女は、手を差し出す。
「……手、繋ぐ?」
少し照れた表情で言う彼女を見て、ああ、と思った。彼女はきっと、彼女なりに、私のことを好いていてくれる。同時に私の脳裏では、映画『タイタニック』の一場面が想起される。
暖かい彼女の手。手を離せば、私は海の底へ沈んでいくだろう。それでも、彼女はきっと生き延びる。これは、それまでの幸福な記憶なのだ。マッチの火と同じくらい短くて、暖かな記憶。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます