第4章(1)氷山
僕は市役所の廊下にあるベンチに所在なく座っていた。木造の庁舎はほどよく風を通して涼しい代わりに、どことなく不穏な感じがする。
何のためにここで待たされているかと言えば、「事情聴取」の一言に尽きるだろう。本土からミズカラ専門の調査官だかお役人だかが来ているらしい。それであの夜、ミズカラの襲撃を目の当たりにした人間が代わる代わる尋問されているとういわけだ。僕の一つ前は桔梗院長で、先ほど名前を呼ばれて奥の部屋へと消えていった。
春日さんはもっと前の順番だったらしく、ちょうど庁舎に到着した僕と入れ違いになった。
なんだか愛想のない人だったよ、と彼女は言っていた。でもこっちの話はしっかり聞いてくれるし、差し障りのない範囲でなら質問にも答えてくれるから信頼できるんじゃないかな、とも。
ミズカラと闘ったあの夜から二日、春日さんとはそれが初めて事件後に交わす会話だった。僕は、僕に対する怯えや警戒を彼女が示していないことに少なからず安堵した。
僕はと言えば、今日まで仕事に行くことも許されず入院を余儀なくされ、健康状態の検査を繰り返し受け続けていた。最終的に、身体を酷使したことによる軽い太ももの肉離れが見つかっただけで、それ以外に異常はないとの診断を受けた。
僕が胸を貫かれた場面を多くの人間が目撃していたが、結局目の迷いということで片付いたそうだ。入院中に様子を見に来た院長がそう教えてくれた。僕も、無我夢中でよく覚えていないが、今こうして元気にしているわけだから刺されたなんてことはないはずだ、と同調しておいた。ミズカラの腕が皮膚を破り肉に食い込む感触はよく覚えていたが、なぜ傷がないのかと問われれば自分でも説明できない。
あのとき僕の身に起きたことについて、誰よりも僕自身が一番、答えを求めていた。もしかしたら、この後面接をするであろう調査官が何らかの解をもっているかもしれない。そんなわずかな希望が僕の胸を去来する。
僕は春日さんのことを考える。命の危険に晒されたのだ、消耗しているようだったが、明日からは仕事に復帰するらしい。気にかかるのはフユだ。院長の情報では、外傷はないものの、あれ以来誰に対しても口を閉ざしてしまっているそうなのだ。おそらく心因性のもので、あまりにも大きな恐怖やショックに晒されたときに防衛反応としてそうしたことが起こることもあるという。
扉が開き、院長が出てきた。そのまま僕の方へ歩み寄る。
彼女は気丈に振る舞っていたが、目の下の隈が濃い。あまり眠れていないのだろうかと心配になる。
「簡単に、あなたのことを説明しておいたわ」
院長は言う。
「記憶を失った状態で浜に倒れていた人だって。それと、現在の生活状況を少しね」
「ありがとうございます。一から説明するのも面倒だと思っていたので」
「思ったより悪い人じゃなさそうよ。気負わず行っておいで」
悪い人じゃない、というのは調査官のことだろう。僕が頷くと、彼女はすたすたと歩き去った。
さらにしばらく待っていると、竹島さん、と呼ばれた。扉の前で、役所の所員と思しき男性が手招きしている。
僕は立ち上がり、太ももの痛みに顔をしかめてからそちらへ向かった。
氷山みたいな人だ。
脈絡なく僕はそんなことを思う。
白井と名乗った調査官は、透き通るような肌の女性だった。僕より若いだろう、と考えてから、そもそも自分の年齢を覚えていないのだから何の基準にもならないことに気付く。
氷山のようだ、と思ったわけは、彼女が初めて僕を目にしたときの反応にあった。
目を見開く――驚き。そのままじっと僕を見つめる――困惑。そして、すっと目を細める――軽蔑、あるいは怒り。
その冷ややかな眼差しは、僕の全身をひんやりとさせた。
彼女は僕を知っている。そしておそらく憎んでいる。そう直感した。
彼女は確実に、記憶を取り戻すためのよすがになる。そう分かっていても、あからさまに向けられる敵意は息苦しい。
「少し外していただけますか?」
白井さんは扉の横に立っていた所員に声をかけた。彼は、はあ、さいですかあ、と緊張感のない言葉を残して部屋から出ていく。
「では、二日前の夜にあなたが見たこと、聞いたこと、経験したこと、何でもいいので教えていただけますか?」
彼女は言った。この上なく事務的に。僕が反応に困っていると、パイプ椅子にさっさと腰掛けてしまう。ボールペンを押し出すカチッという音が響いた。
座っていいとも言われていない。僕は束の間迷ってから、立ったままで話し始めた。
病院の待合室にいたら何やら慌てた様子で院長らがやって来たこと。助力を申し出て、彼らとともに海岸へ向かったこと。浜へ向かってきた影と漁師たちの攻防。近くにいた春日さんやフユを守るため、ミズカラと組み合ったこと。一度は海に放り投げられたが、浜に戻って影の頭部を殴りつけたこと。胸を貫かれた点については話さなかった。
他の証言と照合するためか、ずっと書類に目を落としていた白井さんがフン、と鼻を鳴らした。
「アレの頭を殴って破壊したですって? アレはそんなにやわじゃない。金属バットでもなければ無理よ」
言葉のそこかしこに無数の棘が仕込まれていて、全身を突かれているようだ。院長や春日さんは本当に彼女を「悪い人じゃな」く、「信頼できる」と思ったのだろうか?
「でも実際に、そんなふうだったんです。他の人も見ていたと思いますが」
「そうね。確かに他の人たちもそう証言してる。ただ、情報を精査するのが私の仕事なの。言うなれば、疑うことが任務」
彼女はすらすらとそう言ってのけるが、本当にそれだけだろうか。あからさまに、僕が不快になるよう仕向けている気がする。
それから彼女は、おおよそ僕が予想していたとおりの質問を投げかけてきた。浜を目指して近付いてきたのは一匹だけか、沖にいる他の影たちに変化はなかったか、エトセトラ。僕はそれに、僕の見たありのままを答えていった。
「以上です。お手数をお掛けしました」
あまりにあっけなく、彼女は面接の終了を宣言してしまった。
「あの」
言いかけると、鋭い視線が僕を射る。無論、彼女によって僕に向けられたものだ。
「すみませんが、今ここで私に何かを尋ねられても、お答えはできかねます。全ては調査中ですから」
春日さんの話と違う。白井さんは一刻も早く僕を追い出したがっているように見えた。しかし、僕にとっては千載一遇のチャンスなのだ。これを逃したら、今後僕のことを知っているであろう人間にいつ出会えるか分からない。
「海のアレとは違うことなんです。僕の――」
「あなたの私的な質問であるなら、なおさら私が答える義務など無いように思えますが」
なぜだ。なぜそれほどに僕を敵視するんだ。
この島で、おおよそ僕の周囲は温かく迎えてくれる人たちばかりだと思う。だからなのか、白井さんのとりつく島のない物言いは、僕を一層混乱させた。
書類をまとめるそぶりで背を向けてしまった彼女に、僕はカラカラになった喉から声を絞り出した。
「僕のことを、何か知っていませんか?」
「知っているかですって?」
彼女は眉を歪めて振り向く。
「知ってるかどうかで言えば、知ってるわ。でも、全て人づてに聞いたことばかり。直接顔を合わせたのはほんの数秒ね。あなたの記憶があろうがなかろうが、私のことなんて忘れているはずよ」
それまでの口調をかなぐり捨て、彼女はまくし立てた。
しかし僕も、ここで引き下がるわけにはいかない。
「僕は、何者なんだ?」
無意識に胸へ手を当てていた。僕の中の、最も空っぽな部分。
白井さんはじっと僕を見つめる。
「答える義理はないわ」
「どうして? なぜそこまで拒絶されないといけないんだ」
彼女の目が吊り上がった。
「あなたは――」
言葉を切る。
「あなたは、私を殺した」
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