第1章(1)モスマン
黄みがかった照明の下で、PCのディスプレイが青白い光を放っている。窓の外には夜のとばりが下り、その向こうにぼんやりとした僕の輪郭が見えた。
「就籍許可申立」
ディスプレイに表示されたその文字列を、僕は手元のノートに写し取る。
自分に関する一切の情報を思い出せない僕に残されているのは、新しい戸籍を取得して人生をやり直すという道だけだった。
院長を通じて司法センターや職業安定所に助言を求めつつ、生活保護の申請と働き口の模索を続けている。日常生活に支障のない僕が、このクリニックにいつまでも居座り続けるわけにもいかない。それに、県がホームページ上で公開している身元不明者の一覧に僕の情報が掲載されたにもかかわらず、有力な情報は一向に寄せられていなかった。
談話室には誰もいない。静まり返った部屋に、僕がペンを走らせる音だけが響いている。
名前を決めねばならない。無論、自分のだ。無限に近い選択肢は僕をひどく悩ませていた。住む場所も定めなければと思うのだが――当然、戸籍には本籍地だって必要だ――職場の目途が立たないことには決めようもない。僕の思考は堂々巡りを繰り返し、やがてあらぬ方向へと延焼していく。
僕は自分の胸の穴を凝視する。あるべきものがぽっかりと欠落してしまっているという感覚。血が通い、体温をもっているはずの僕の身体で、そこだけがコンクリートのような鈍色を発している。それなのに時折走る鋭い痛みが僕をさいなんだ。
――僕に残されたのは胸の穴だけ。
そんな自己憐憫が溢れそうになり、僕は一度だけ深く呼吸をする。
背後で扉の開く音がした。目を向けると、ナース服姿の女性が立っている。
「まだ起きていらしたんですね」
彼女はこちらへ歩み寄り、僕のノートを覗き込んだ。華奢な肩の上で、黒髪がかさりと音を立てる。
「自分がすべき手続きをまとめていたんです」
僕が言うと、彼女はゆっくり頷いた。
「大変ですよね。でも、あんまり根詰め過ぎたらだめですよ」
「ええ。無理はしません」
彼女は再び頷く。今度は小刻みに、何度も。
「名前、決まりました?」
「まだ何とも。ごめんなさい、早く決めた方がいいのは分かっているんですが。僕のことを何て呼ぶか、困ってしまいますよね」
「いや、そんなつもりで聞いたわけじゃないんです。悩んでるって以前おっしゃっていたから」
こうして気にかけてもらえるのはありがたいことだ。特に、僕のようなあらゆるつながりを失った人間には。
「何かこだわりがあって決めかねているわけではないんです。自分のことが分からないから、どんな名前を当てはめればいいか見当もつかないだけで。何かいい名前ありますか? 言ってくださればそれにしますよ」
冗談めかしてそう口にすると、彼女は笑い声を漏らした。
「そんな責任重大な。私がとんでもない案を出したらどうするんですか」
「名無しの権兵衛とか?」
「権兵衛さんなんて、どんな顔して呼べばいいんですか」
くだらないやり取りで、二人して笑う。彼女――看護師の春日さんは、入院当初からこんなふうにして僕のことを気遣ってくれる。新卒でこのクリニックに就職し、もうすぐで一年になるのだとか。
僕は深く潜るような思考から引き戻され、少なからずほっとしている。とは言え、その安心感の中にあってさえも、僕の中の鈍色は存在し続けた。絶えず肋骨の辺りを這いまわり、つんとした痛みを発しているのだ。
「そう言えば、昨日の夕方に院長先生とどこかへ出られてましたね?」
春日さんが言う。
「ええ。ここを出るにあたって、近隣を案内してもらってたんです。なんせ、この辺りのことは全く分からないので」
「ご飯のおいしいお店なら紹介しますよ?」
「本当ですか?」
自分の口元がほころぶのを感じる。それは、彼女の申し出を喜ばしく思ったからだけではなさそうだった。つまるところ、僕はここを出た後のつながりを保つために必死なのだ。
「院長先生のことだから、きっと居酒屋さんの案内ばかりだったでしょう?」
「御名答。よっぽどお酒好きなんですね」
「ええ。毎日誰かを連れ回してますよ。うわばみだから、ペースを合わせたせいで二日酔いのまま出勤する羽目になった職員は数知れず」
私もその一人ですけどね、と彼女は舌を出す。小柄で大人しそうな彼女が、どちらかと言うと豪快で恰幅の良い院長と並んでお酒を飲んでいるところなど想像できなかった。
僕は昨日からずっと気になっていたことを口にした。
「最後に、不思議なものを見せられたんです」
春日さんは「ああ」とこぼして思案顔になった。
「海の方へ行ったんですか?」
「ええ。それで、沖の方をうろついている影のようなものを見て。院長先生からはそれについてほとんど何も教えてもらえなかったんです。あれはいったい何なんですか?」
あの黒い影が現れるようになった経緯。その正体。そして、彼らが僕たちの生活に及ぼす影響。その何一つとして、僕には見当もつかなかった。
「立ち入ったことを聞きますが、権兵衛さんは自分以外のことはある程度覚えてみえますよね? お金の使い方とか、ルールとマナーみたいな社会的な常識のことは」
「ええ。全生活史健忘と院長先生からは言われました」
彼女が僕のことを権兵衛と呼称したときに笑うべきかどうか迷ったが、彼女は顎に手を当てて難しい顔をしたままだ。だから僕も、真面目に切り返すことにした。
「そうなると奇妙ですね。だってあれは――」
春日さんがそう言いかけたところで、談話室の扉が開いた。
「名は体を表す」
扉の向こうから、その言葉は唐突に降ってきた。見ると、小ぎれいなジャケット姿の男が、開いたままのドアから覗き込むようにこちらを見ていた。
「クダン先生」
春日さんがにこやかに声をかける。どんな字を書くのか知らないが、その男性がクダンという名字であることは僕も知っていた。
クダン先生はつかつかと談話室内へと歩み入って来る。その手には、両手に収まるサイズの透明なケースが抱えられていた。中には、一匹だけ蛾の標本が収められている。くすんだ茶色い羽が広げられ、そこに目玉のような模様が浮き出たそれの名を、僕は知らない。
彼はその小さな宝物を持ち歩くのが常だった。そのためか、院内で彼は不名誉な二つ名を与えられていた――“モスマン”。
「君はまだ自分を取り戻していない。それは、君が名をもたないからだ」
低くざらついた声で彼は言う。
「唯名論を? 我々は実体のあるものに名を付しているのではない。名があるからこそ、対象を区別して認識できるようになる。即ち、名付けられたからこそ、それらは存在することを許されるのだ。細かな色名を有する国では、虹の色が八色となるように」
モスマンは僕の隣にゆっくりと腰かけた。彼の節くれだった指が、愛おしそうにプラスチックケースを撫でている。
誰もがクダン先生と呼ぶが、実のところ、彼はここで厄介になっている一入院患者である。もとは哲学科の大学教授だったとか、それなりに名のある占い師だったとかいう噂がまことしやかにささやかれていた。
「何か温かいものでも淹れましょうか」
春日さんが問いかけると、モスマンは首を横に振った。
「結構。眠れなくなっては困る」
それから、僕のノートを指さす。
「今、君が決めようとしているそれは、名前ではない。不都合を一時的に緩和するための記号だ。それが決まった後も、君は自分の名を取り戻すために、あらゆる努力を惜しむべきではない」
「ええ」
僕は、ありがとうございます、と言い添える。もとより、自分の記憶を取り戻すことをあきらめているわけではないのだ。モスマンは僕の目をじっと覗き込んで来る。
「ここを出るのだろう? 波の狭間をうろつく悪しきものたちは見たか?」
内面まで見透かされたような気分になり、どきりとする。先ほどまでの会話を、彼は耳にしていたのだろうか。
「見ました。あれは――」
「大きな戦いが起きる」
僕の言葉を遮って、モスマンは口早に言う。
「とてつもない危険が、今まさにこちら側へやって来ようとしている。これからだ。いいか? 君が彼らの姿を見ているとき、彼らもまた君の姿を捉えているのだ」
大きな戦いがあった、と院長は昨日言った。そして、目の前の男はこれから大きな戦いがあると言う。それが予言めいた発言なのか、それともモスマンの中で時系列が歪んでしまっているのか、僕には判別できない。
「それから春日嬢」
モスマンはぎらついた目線を春日さんの方へ転じる。彼女は黙って彼の話を聞いていたのだが、突然矛先が自分へ向いて少なからず動揺しているようだった。
「私ですか」
「そう。君は彼の近くを離れるべきではない」
モスマンの口ぶりから察するに、彼とはつまり僕を指しているらしかった。
「君は遠からず、彼に救われることになるだろう。私には無理だが、彼にはそれができる。ゆめゆめ忘れるでない」
そして、彼は立ち上がる。あっけにとられた僕ら二人を残して談話室を立ち去るまで、彼の胸元に抱えられた標本は、大きく開かれた目玉模様でこちらをずっとにらんでいた。
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