第1章(2)きみどり

 退院の日、手の空いている病院関係者たちが玄関まで見送りに出てくれた。

 院長、春日さんといった顔ぶれに混じって、なぜかクダン先生の姿も見える。

「何かあったらいつでもおいで。私もそのうち様子を見に行くから」

 桔梗院長はそう口にしてから、ついでに飲みにつれて行ってやると言い添え、大きな笑い声を上げた。

 クダン先生は僕に握手を求めながら(無論、もう一方の手には相変わらず蛾の標本が握られている)、「名を取り戻すのだ」と言った。

 春日さんはその様子を微笑みながら見ている。結局、談話室での彼女の話は宙に浮かんだままになってしまい、あのとき彼女が何を言おうとしたのか僕には分からないままだ。前に立って礼を述べると、彼女は黒目の大きな目でじっと見返してきた。

「もう権兵衛さんじゃないですからね。竹島さん――まだなんか慣れないな。お体に気を付けて」

 竹島一郎、それが僕の決めた名前(モスマンの言葉を借りれば、「不都合を一時的に緩和するための記号」)だ。考えすぎるとどうにも決めきれず、最終的には古い電話帳を当てずっぽうにめくり、目に留まった姓と名を適当に組み合わせることになった。

「僕も呼ばれ慣れないです。もしまたお会いできたら、慣れるまで呼び続けてもらわないと」

 冗談めかして言うと、彼女はこくこく頷いた。

 そうしたやり取りを終え自動扉から出ると、波の音が聞こえた。前方には味気ない駐車場があり、その向こうになだらかな山が見える。日差しがあって温かい反面、僕の内側は寒々としていた。

 歩きながら、ここからは一人なのだ、と思う。一人で暮らし、一人で働き、一人で記憶を探り続けるのだ。

 院長がたまには様子を見に来てくれるのだろう。そうして、僕を居酒屋にでも連れ出してくれるのだろう。しかしそれは、それが彼女の職務だからだ。訪問から次の訪問までの期間はやがて延びていき、いつか途絶えるに違いない。そんな不幸自慢のような思考が、僕の頭にこびりついて離れない。

 胸の穴は大きさを増し、その存在を――あるいは存在の欠落を――主張し続けている。

 肩を叩かれた。振り向くと、僕の肩より少し低い位置で春日さんがこちらを見上げている。少しだけ息を切らせているから、走って追いかけてきてくれたのだろう。

 忘れ物でもありましたか、と聞こうとした僕に、彼女は一枚の紙きれを手渡す。メモ用紙に、丸い字で十一個の数字が並んでいた。

「電話番号。私の」

 彼女の瞳に、僕の呆けた顔が映っている。

「困ったら連絡して。それじゃ」

 それだけ言うと、くるりと踵を返し、病院の方へ走り去ってしまう。

 風が吹いたので、僕はメモが飛ばされないよう、指に力を込めた。

 日が差している。手の中の紙切れは、ほんのりと温かかった。


 僕の出勤は一週間後だ。まずは生活のリズムを作り、それから働き始めるというふうに段階を追うらしい。

 自分の部屋を眺める。六畳の家具付きアパートだ。シングルベッドの脇に冷蔵庫、その上に電子レンジ、手前に座卓があり、正面にテレビ。キッチンは玄関側。生活のために必要な最低限が味気なくそろえられており、今の僕にはおあつらえ向きと言えた。

 ごわついたカーペットにあぐらをかき、座卓に置いた紙切れを意味もなく広げては折りたたむ。正直なところ、僕はそれを持て余していた。どう取り扱えばいいのか分からないのだ。今日の今日、連絡をするのはあまりに性急だろうか。かと言って、間を開けてしまうのもばつが悪い。

 僕は立ち上がり、所在なく部屋をうろついた。自分の部屋なのにおかしな話だ。

 オレンジ色に染まった中に、僕一人の影が伸びている。それはどこか、波の間をうろついていたあの影たちを連想させた。陽が落ちる。

 ――ひとまず。

 そう僕は考える。

 ――夕食をとらねばなるまい。

 空腹感はなかったが、胃にものを入れておかなければ体調に差し障る。食事を抜いたことが院長にばれようものなら、何を言われるか知れたものではなかった。

 最低限の部屋で、最低限の身支度を整え、僕は部屋を出る。結局、春日さんのメモは卓上で折りたたまれたままだ。

 どこか遠くで鳥が鳴いた。


 がたついた引き戸を恐る恐る開けると、誰もいない木製カウンターが目に入った。全部で七席。椅子の上にはそれぞれ花柄のクッションが置かれ、どことなく昭和の香りがする。「きみどり」という店名がそっけなく書かれた暖簾をくぐり、中に入った。

「こんばんは」

「いらっしゃい」

 声を掛けると、店の奥から女性が出てきた。五十代だろうか、金色に染められたショートヘアを後ろへ流し、デニムのシャツに黒い細身のパンツという若々しいスタイルだ。

「初めて見る人だね。よくまあこんな小さな店に入って来たよ」

 酒焼けだろうか、低くてよく通る声だ。

「院長に――桔梗さんに紹介してもらって」

「ああ、めぐちゃんの言ってた子か。言われてるよ、ご飯をちゃんと食べさせてやってくれって」

 さすが院長だ。僕のために手を回してくれていたらしい。促されるまま、真ん中の席に腰を下ろす。目の前にはガラスのケースがあり、ラップのかかった刺身の皿が並べられていた。その脇に、お世辞にも達筆とは言えない文字で品書きの書かれたホワイトボードが置いてある。

「飲み物は何にする? お酒は好き?」

 お酒。僕は飲めるのだろうか。舌の上で酒の味をいくら想像してみても、何も分からなかった。仕方なく、ウーロン茶を頼んでおく。

 女性はしばらく、また奥の方へ引っ込む。戻って来たときには、ウーロン茶と、お椀やら何やらの載ったお盆を持っていた。

「ウーロン茶。それと夕食」

 目の前に差し出されたそれには、お米と肉じゃが、みそ汁が並べられていた。健康的な夕飯だ。

「メニューから選ぶ権利はないよ。栄養管理のことをめぐちゃんには口酸っぱく言われてるんだから」

 女性はそう言って笑う。

 肉じゃがはあっさりとした味付けがされていて、いくらでも食べ続けることができそうだった。みそ汁も、豆腐とわかめというシンプルな具材ながら、家庭的でどこかほっとする味だ。

 女性は、僕のことを根掘り葉掘り聞こうとはしなかった。代わりに、自分の身の上話を語って聞かせてくれた。

 彼女の名は夕子さんと言うらしい。この辺りが地元だそうで、裕福とは言えない家庭で育ったために、中卒で町工場に勤めていた。そのうち職場の仲間と連れだって飲み歩くようになる。

 この店も、もとは別のオーナーがいて、彼女はただの常連客でしかなかった。しかし、オーナーが体調を崩し、店を畳むかどうかという話になったところで、彼女を新オーナーに、という声が上がったという。

「本当に、縁だよね。この世界は」

 感慨深げに夕子さんは言う。

「店の名前も変えずに、設備もほとんどそのままでやらせてもらってさ。ただの客でしかなかったアタシを、前のオーナーさんがそこまで買ってくれているなんてうれしくてね。もとはオーナーさんの体調が落ち着くまでの代理店長って話だったんだけど、結局そのまま亡くなっちゃって。以来十年、細々とここで続けさせてもらっているのよ」

 僕には気の利いた返しなんてできないから、相づちだけを打ち続けることになる。しかし夕子さんは気を悪くするふうでもない。

「アタシ一人で切り盛りしているから、メニューも少ないし時間もかかる。どこぞのバーみたいに若い女の子がいるわけでもなく、スナックよろしくカラオケの設備もあるわけじゃない。それなのに来てくれているお客さんたちに支えられているわけよね」

 だからさ、と彼女は続ける。

「その大事なお客さんの一人にめぐちゃんがいて、その他ならぬ彼女の頼みだからこそ、アタシはここでアンタに夕飯を食べさせているわけ。別に恩を着せるわけじゃないけど、安くしておくし」

 そして人差し指を立てる。

「だから、毎晩いらっしゃい。アタシはアンタの顔を見て、めぐちゃんに元気そうだとか何とか報告する。アンタはご飯に困らないし、アタシは一定の収入が見込める上に上客さんとの約束が守れてウィンウィン。なんてね」

 そう言って夕子さんは低い声で笑った。

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