第1章(3)仲裁
そこからの一週間は、なんとものんびりしたものだった。近所のスーパーに出向いて食料や生活用品を調達する。老夫婦が営む個人経営の店で、見慣れない顔が入って来たと物珍しげに眺め回されるのには閉口したが、品ぞろえは悪くなかったし、何よりすべてが安価だった。
僕の部屋にはユニットバスがあるが、湯船に浸かりたくて銭湯にも足を向けた。番台のある古き良き大衆湯場という雰囲気で、壁のタイルには富士山が描かれていた。
「きみどり」には毎晩訪れている。そこで健康的な夕飯を御馳走になり、夕子さんととりとめのない話をした。といっても僕はほとんど聞き役で、もっぱら話すのは夕子さんだった。
「きみどり」には常連さんがいて、時に僕は彼らとも挨拶を交わすことになった。元ボクサーだと言う与一さん(片目が義眼の強面だが、話してみると柔らかい人だった)、郵便配達員をしているという白壁さん(少し離れたところにあるアパートに暮らしているそうだが、住人たちが個性的すぎて毎日話題に事欠かないらしい)、ギター好きの人見さん(なんでも富豪の孫らしく、別荘に仲間たちと集ってはバンド活動のようなことをしているのだそうだ)。彼らは思い出したようにふらりとやってきて、何気ない話をした後にまたふらりと去っていった。
日曜の夜、常連さんは皆帰ってしまい、店内には僕と夕子さんの二人だけだった。僕は麦焼酎をちびちびと口に含む。常連さんからおすそ分けをもらい、どうやら酒が呑めるらしいことも分かってきた。
「そろそろ閉めようか。暖簾、下げてくれる?」
「分かりました」
「悪いね、お客さんなのに」
いえ、と口にしながら、引き戸を開けて暖簾を取り外す。ここではすでに、半ば従業員のような扱いをされているので、外した暖簾をどこに立てかければよいかも知っている。
「明日はいよいよ出勤だねえ」
背後から、夕子さんの明るい声が、皿洗いの音に混じって聞こえてくる。
「そうですね。社長さんは優しそうな方でしたし、それほど心配はしていないですが」
「ま、無理なくやりな。へこたれんなよ」
僕が席に戻ると同時に、夕子さんが手を拭きながら戻ってきた。
「仕事仲間ができたら、ここに連れておいで」
「そうします」
誰かと連れだってここを訪れる日が来るのだろうか。僕にはうまく想像できない。ふと、春日さんのことを思い出す。結局、彼女には連絡をしていない。仕事を始めて、初任給で食事に誘うのが真っ当だと思ったのだ。いや、それは言い訳で、実のところ自分が臆病になっているだけだというのはよく分かっている。
おやすみなさい、と告げて僕は店を出た。
なんとなくまっすぐ帰る気になれなくて、少し遠回りをすることに決める。
小さな無人駅のある方へ向かい、少し繁華な通りを抜けて帰れば、三十分はかかるだろう。
歩きながら、仕事のことを考える。
僕が勤めることになっているのは、「神林運輸」という運送会社だ。段ボールをトラックに積み込むだけの作業を任されると聞いている。
面接で対面した社長は、スキンヘッドに黒スーツという威圧的な風貌でたじろいだが、つまらない冗談を言って自分で笑う、快活で憎めない人だった。詳しい説明は明日とのことだったが、なんとかやっていけるだろう。
僕の思考は次第にまとまりを欠き、少しずつ内側へと向かっていく。
もう何度目か知れない、心の空洞を見つめ、実際に胸に手を当ててみる。自分の脈拍を感じる。それだけだ。僕の身体は規則正しくリズムを刻み、不具合なく動いている。
「僕は何を失くしたんだ」
そう呟いてみる。圧倒的な喪失感。どうすればこれが埋まるのか分からない。これだけ周囲の人に恵まれ、温かい食事をとってもなお、ふさがることのないうろ。
胸の穴に、リスが住み着いているところを想像してみる。しかし、それも決して僕を明るい気分にさせてはくれなかった。きっと、リスはそこに充満した寂しさに当てられて死んでしまうだろう。
いつの間にか、駅近くまでたどり着いていたらしい。まだ開いている安っぽい居酒屋の照明を眩しく感じる。
「いいかげんにしてください」
唐突に、いさかいの声が耳に飛び込んで来る。
若い女性の声だ。それに被さるように、男の罵声が聞こえる。呂律が回らず、言葉の体をなさないような暴言だ。
こんな小さな島であっても、トラブルは付きものなのだな。
そんな当たり前でつまらないことを考えながら、僕はつい声のする方へ足を向ける。こういうのを野次馬根性とでも言うのだろうか。
居酒屋の入口近くで、複数の男女が向かい合っていた。どうやら、男性グループ対女性グループという構図になっているようだ。
中心でいきり立っているのは、細身で長髪の男だった。だらしなくスウェットを着崩している。男性グループの中にも、その男をいさめようと声を掛けているやつらがいる。おそらく、スウェットの男がすべての元凶だろう。
外に置かれたテーブルにグラスやおつまみが並べられている。グラスの中には、いかにも甘そうなカクテルと溶けかけた氷が見えた。
女性グループがテラス席で飲み会をしていた。そこへ男性グループがナンパまがいの真似を働く。きっと、半ば冗談のようなノリだったのだろう。女性グループは当然突っぱねる。しかしそこで、一人の男が――長髪のスウェット男が――酔いも手伝って、本格的に激昂してしまい、揉め事に発展。
そんなところだろう、と僕は見当を付けた。
僕は歩みを早め、そそくさとその場を後にしようとする。この後どうなるのか気にはなったが、明日は初出勤なのだ。こんなタイミングで面倒に巻き込まれたくはない。
しかし、僕は足を止めていた。
何かが引っ掛かったのだ。
今一度、男性グループと女性グループを注視する。
「何見てんだこら」
スウェットの男が下手くそな巻き舌を披露した。
女性グループの一人が、僕の方を見つめている。
――ああ、そういうことか。
僕は自分の違和感に気付いた。
革のジャンパーに襟ぐりの深い黒のTシャツ、それにタイトなスカート。普段見たことのない姿だったから、彼女の姿を認めるのに時間が掛かってしまったのだ。
春日さんが、困惑した顔で僕を見ている。
「何とか言えや」
仲間の制止を振り切って、スウェット男は僕の胸ぐらをつかんだ。
僕は相手を刺激しないよう、努めて柔らかい声を出した。
「部外者なのにすみません。知り合いが困っているように見えたものですから」
「知り合いだあ? んなもん知るか」
「とりあえず、何があったか教えてもらえますか? ちゃんと聞くんで」
もとより、そんな説得に意味があるとは期待していなかった。胸ぐらをつかまれた時点で、あらゆる先手は相手が握っているのだ。
まぶたの裏で火花が散った。頬に痛みが焼け付く。次に、背中と後頭部に鈍い衝撃。それから周りのざわめき。頭から肩に掛けて、冷たい感覚が伝った。
数秒遅れて、殴られたのだと気付く。おそらく、その勢いで僕はテーブルへとぶつかり、頭からカクテルでも浴びたのだろう。
女性――たぶん春日さんだ――が「やめてよっ」と声を上げている。
さすがに暴力行為はまずいと思ったのか、「お前マジで落ち着けって」という男たちの声も聞こえた。
甘ったるく粘っこいカクテルのせいで、僕はまだ目を開けられない。
ただ、周囲がざわめいている。そして、それは突然音を失い、静寂が訪れた。
――野郎、こんなものも持っていやがったのか。
僕の声が聞こえる。
唐突に、僕の視界を映像が埋め尽くす。
振り上げられたナタ。それから、金づち。
僕は武装した誰かと闘っていた。僕は深手を負って、地面に伏す。しかし相手は手を緩めない。
僕は相手の腰を掴んで――。
それからすべては暗転する。
目を開ける。
スウェットの男の姿がはっきりと見えた。仲間の制止を振り切って、こちらに向かってくる。
しかし、その姿はどこかスローモーションのように見えた。精彩を欠いた、ただのコマ割り。
僕は瞬きをする。頭のぐらつきは落ち着いた。呼吸のリズムが狂っていないことを確認する。
――あと五歩でここへ到達する。時間にして二秒。
僕はそう思う。
――右手を振り上げているから、十中八九そちらから殴られる。でも、相手も酔っているから、バランスを崩した弾みで予想外の動きを見せる可能性も否定できない。
僕は両手を突き出す。
相手の腰をつかんで、親指の付け根から強く力を込める。
両側の股関節から、大腿骨の骨頭が外れた――確かではないが、僕はそれを感覚的に悟った。
スウェットの男は、昆虫のようなわめき声を上げて崩れ落ちた。痛い痛いと繰り返しながら這いつくばっている。
結局、彼は仲間に抱えられてその場を去った。足が地面を擦るたびに、彼は「頼むからもっと大事に扱ってくれ」と泣き声を上げていた。無様だ、と思った。
春日さんがこちらを見ている。
恥ずかしい、と思った。僕は頭からカクテルまみれになっているだけでなく、こめかみや頬にあざができているはずだ。喧嘩の仲裁に入るなら、もっとスマートに解決したかった。しかし、そんなことを言ったところでもうどうしようもない。
「竹島さん……」
彼女は言う。そしてそのまま、黙ってしまう。
僕だって同じだ。彼女に何と言えばいいのか分からない。
女性グループの他の人たちが、春日さんと僕を見比べている。
なに、あんたら知り合い?
そんな声が聞こえる。春日さんは答えない。
春日さんは僕を見ているけれど、その目に浮かんでいるのは、驚きでも、ましてや感謝でもない。
困惑、そして恐怖だ。
無理もない。酒の席でトラブルが起こり、そのさなかに突然、元入院患者である僕が現れたのだから。そして、殴られてみっともない姿をさらした挙句、相手に痛い思いをさせて退散させた。
彼女が思っていることを、僕は一語一句当てられる自信があった。
それは、僕が思っていることと全く同じであるはずだ。
――一体、僕は何者なんだろう。
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