Re:cALL

葉島航

序章

 桔梗院長が僕を浜辺に連れ出したのは夕暮れ時だった。

 西日の下半分はすでに海へ飲み込まれ、橙色の光が彼女の表情に陰影をもたらしている。

「たまにはいいでしょ。こういう景色を見るのも」

 院長はそう言う。

 波はあるがままに打ち寄せている。そして鏡面のように、残光を映し出している。確かにそれらは、ひどく雄大な――同時に畏怖すべき――ものであるように思えた。

 僕と院長が立つ桟橋の先には、灯台がある。それは塔の中ほどで真っ二つになっていた。橋の上に灯ろうが頼りなく寄りかかり、その少し先にひしゃげた踊り場の手すりが見える。

「朽ちた灯台よ」

 あれは何ですかと僕が口にする前に、院長は答えた。

「七年前、大きな戦いがあったその名残。あらゆる犠牲を忘れないために、私たちはここをこのまま保存している」

 彼女の言う「大きな戦い」が指す意味を僕は知らない。この小さな島が戦争に巻き込まれたとでも言うのだろうか。それとも、村内で起きた事件あるいは事故を比喩的に表現しているだけなのだろうか。

 僕は思考を手放す。考えたところで仕方がないし、知りたければ院長に尋ねればよいのだ。

 院長は前方を指さした。壊れた灯台ではなく、もっとその先、海の方だ。

 おかげで僕は、彼女の言う「大きな戦い」について質問する機会を永遠に失ってしまった。

「あれをご覧なさい」

 彼女が指す方向へ、僕は視線を漂わせる。漁船の影すらない海上だ。何かがあるとも思えなかった。

 戸惑ったまま院長の方を見ると、有無を言わさぬ口調で「よく見て」と言われる。仕方なく再び目を凝らす。

「これから、この島で暮らし続けるのであれば、知っておくべきことよ」

 夕日の色は先ほどより幾分鈍くなっている。その手前で、波が繰り返し立ち上がっては消えていく。その隙間に何かが見えたような気がした。

「あれ、人ですか?」

 人型の黒い影だと思った。それも一人ではない。何体もの影が、上体を海から突き出して揺らめいている。

 うっすらとした、頼りない人影だ。夕日で目が迷っているのだ、と言われれば納得してしまいそうなくらいに。

「人ではないわ。言うなれば、邪悪なものね。今でこそ、ああして沖の方をうろうろしているだけで、実害はないのだけれど」

「妖怪とか化け物とか、そういった類のものってことですか」

「それが近いのかもしれない。やつらは夕暮れから姿を現して朝日の到来とともに姿を消す。この辺りは漁船が多いけれど、やつらがうろついている間は船を出さない。そういうことになっている」

 彼女の言葉だけでは今一つ要領を得ない。夕暮れから翌朝にかけて、黒い影が波間に現れること。そしてその間は船を出さないのがこの村のルールであること。僕が知り得るのはそれだけだ。

「ごめんなさいね。私も詳しく知らないしうまく説明できないの。七年前の大きな戦いで、人間はやつらと相対した。そして、あそこまで弱体化させた。それだけ」

 そういうものだと飲み下すことにした。いずれにせよ、僕はここで生きていかなければならない。そして、そのためにはここの常識を知っておく必要がある。

 波間の影たちは、丸い頭部をややうつむかせながら、左右へうろうろと動き続けている。まるで、何かを探しているみたいに。

 院長にそう伝えると、彼女は小さく笑った。

「そうねえ、言われてみればそんなふうにも見えるけど。あなたがそう思うのは、きっとあなた自身をあの光景に投影しているからよ。あなたが何かを探し求めているから」

「確かにそうかもしれませんが」

「そう考えると、あなたがあの海からやって来たことに、運命的なものを感じずにはいられないわね。でもあなたは波の隙間ではなく、こちら側に立っている。だからきっと、探しているものも見つかるはずよ」

「でも、何を探しているのか自分ですらよく分からなっていないのに」

「焦ってはだめ。埋めたいんでしょう、その心の穴を」

 僕は数週間前、この浜辺で倒れているところを発見されたらしい。身に着けている衣服のほかに所持品は無く、さらに自分自身に関する記憶の一切が失われていた。

 島唯一の病院に厄介となり、桔梗院長とも繰り返し面談を重ねたのだが、一向に記憶が戻る気配はなかった。ただ分かっているのは、僕の胸に大きな穴が空いていることだけ。「喪失感」「虚しさ」といった言葉では生ぬるいほど、その穴は僕の輪郭と重ならんばかりに広がっていた。そしてあらゆることは、その空洞を通り抜けてどこかへ霧散してしまう。

 黙って、遠い波間を見つめる。そこでは黒い影たちが、失われたものを探してさまよい続けている。

 思い出すべきなのだ。僕は何者なのか。なぜここへ打ち上げられたのか。

 そして、何を失ったのか。

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