第6章(2)ファーザー

 水流の中でもみくちゃにされ、何度か岩肌に叩きつけられる。

 常人であれば、どこかで大怪我を負っているだろう。しかし水に濡れた僕らは、遥かに頑丈だ。

 やがて、硬い地面へと放り出される。僕は仰向けの状態で寝転がった。僕の足元より少し高い位置に、今さっき通り抜けてきたと思しき横穴が見える。

 間を置かず、大場スミもそこから吐き出された。僕の真上に飛んできた彼女の身体を受け止める。

 僕らは折り重なり、抱きしめ合う形になった。

「ごめん」

「何の謝罪ですか」

「この体勢の」

「訳の分からないことを言わないでください」

 彼女は身を翻して、ぱっと離れてしまう。

 身を起こすと、眩い光が目を射た。

 真っ白な壁と床。そして荘厳な意匠の柱の列。

 ――神殿だ。

 大場スミと並び立ち、神殿の奥を眺める。

「懐かしいね」

「桜庭さんにとってはそうでしょうね」

「うん。長い間ここにいた」

 歩を進める。眼前には階段が見えてきた。そして、各段に浮かぶ無数の扉たちも。

「覚えてる?」

「十三段目の一番左、でしょう?」

「御名答」

 十三段目の一番左。その扉が海へとつながっている。僕らの暮らしていた島の、折れた灯台のある海に。

 そして、それ以外の扉は、こことは異なる世界へとつながっている。

「まあ、それは向こうへ戻るときにしか使わない。まずは『ファーザー』だ」

 階段を上り切った先に、玉座がある。「ファーザー」はそこにいるはずだ。おそらくは、まだ不完全な形で。

「行きましょう」

 躊躇なく、大場スミは白い階段へ足を掛ける。僕もそれに続いた。

「さっきの、桜庭さんの謝罪」

「謝罪? ああ、あのおふざけか」

「おふざけの自覚があったんですね」

「当然。本気だとしたら嫌だろう?」

 大場スミは笑った。肯定も否定もせず。

「あのとき、思ったんです」

「何を?」

「そんな未来もあったのかなって」

「そんな未来って?」

「桜庭さんと私が、いわゆる恋仲になる未来ってことです――何言わせるんですか」

「僕は何も言ってない」

 緊張感のかけらもなく、僕らは扉を避けながら、そんな軽口を叩く。

「桜庭さんは最愛の人を――君野梨歩を失って心に穴が空いている。そうでしょう?」

「いかにも」

「そして、私にもいつかそのときが来る。前田のおばちゃん、覚えてますか?」

 前田のおばちゃん。僕は面識こそないものの、幾度となく大場スミからその名前を聞いて来た。

 大場スミが育った児童養護施設の園長。そして、大場スミが――彼女の中のミズカラが執着する人物。つまりは、彼女にとって一番大切な人間だ。

「おばちゃん、今は施設に入ってるんです。年齢によるもので、歩けなくなったのと、認知症が進んでいるのと」

「そうだったのか」

「おばちゃんの寿命を考えたとき、不安になるんです。そのとき、私は平静を保っていられるのか」

 彼女が恐れていることを、僕はよく理解している。前田のおばちゃんを失ったとき、彼女が暴走状態になってもおかしくはない。執着する相手は、僕らのようなモノにとって理性を保つためのよすがなのだ。

「大丈夫だよ。今の僕を見るといい」

 冗談めかして言うと、大場スミは首を振った。無論、階段を上る足の動きはよどみない。

「桜庭さんは強いからそう言えるんです。昔から、何かとんでもないものを背負っていても、おくびにも出さない」

「そんなことは――」

「とにかく、私が大切な人を失ったときに、桜庭さんがいてくれたら、なんとかなるのになって思っただけです」

 僕は何も言えない。黙って階段を上る。

「胸に穴を抱えた者同士、支え合えると思いませんか?」

 彼女はいたずらっぽく笑った。そして、断ち切るように咳ばらいをする。

「――さて」

 僕らは階段の最終地点までたどり着いていた。目の前には巨大な玉座が鎮座している。

 その上には、ふつふつと波打つ何かが居座っていた。

「これが『ファーザー』の成れの果て、ですね」


 僕の記憶にある「ファーザー」は、他よりも遥かに大きなミズカラだった。しかし、今目の前にしているこれは、その面影をほとんど残していない。

 水分を混ぜ込みすぎた粘土。

 そう思った。

 灰色の、どろどろとした物体。確かに巨大なのだろうが、半身はまだ再生しきれていないのだろう。かろうじて視認できるのは、縦長の頭と、右腕だけだ。それ以外はまだ明確な形状を保つことができず、膨らんではしぼんでを繰り返している。

 目や鼻もない、半ば溶けかけた顔面に、口らしき切れ込みだけが空いている。その中には、人間のものとそっくりな歯が無数に並んでいた。

 それは長い右腕を伸ばした。しかし動作は遅々としたもので、僕らに届くことはない。

 二の腕の辺りから、泥のような塊がしたたり落ちている。

「哀れなものですね。これを復活と言ってもいいのかしら」

「ミズカラたちが害意を取り戻しているのは確かだからね。このままにはしておけない」

「もちろんです。ただ、ここまで弱っている相手を潰すのはさすがに気が引けます」

「間違いない」

 こうしている間にも、地上ではレジスタンスたちが闘っている。彼らを危険に晒し続けるわけにはいかない。

「僕だけでやろうか?」

「いえ。私も一緒に」

「そうか」

 二人で、「ファーザー」の前に進み出る。

 それは、再びゆっくりと右腕を持ち上げた。

 それより数百倍速く、僕らは足を振り上げる。


 数瞬ののち、「ファーザー」の不完全な肉体は、跡形もなく四散していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る