第3章(2)来る

 ――それがいつから始まったのか、誰も知らない。

 社長はそんなふうに言った。

「デスゲームって知ってるか?」

 唐突な言葉に、僕はすぐに返事ができなかった。無論、デスゲームなるものについてはおぼろげに知っている。文字通り、負ければ死に直結するようなゲームを題材とした創作物。それらが一時、流行したのだとか。

「あるデスゲームが、現実の世界を侵食し始めた。狙われるのは若者たちだ。彼らは、就寝した後に、とある洞窟で目を覚ます。周囲には同じように集められた若者たちが数人いる。彼らはその洞窟のゴールを目指さなければならない。もしゴールにたどり着けば、もう二度と洞窟に集められることはなく、平穏に人生を送ることができる。ゴールにたどり着けなければ、成功するまで、あるいは命を落とすまで、何度もその洞窟に招聘される」

「それは夢の世界、ということですか?」

「簡単に言ってしまえばそうだ。若者たちは夢の中で、洞窟のゴールを目指し奮闘する」

 出来の悪いRPGゲームのようだ。そんな話が、あの邪悪なものたちとどんな関係があると言うのだろうか。

「もちろん、デスゲームである以上、洞窟の中には命を脅かす危険なものがうろついている。それが、あの邪悪なものたちだ」

 僕は想像する。洞窟の中をこわごわと進む若者たち。その行く手に、黒い影がいくつも立ちはだかる。

「彼らは、水たまりから出現する。そのため一部では、『ミズカラ』と呼ばれていたらしい」

 ミズカラ。

 何かが僕の脳内を駆け巡った。耳の奥で、チリチリと音がする。

 確信した。

 

「やつらに捕まればひとたまりもない。金属バットでもあれば撃退は可能らしいが、生身で挑むのは無謀で、すぐにくびり殺されてしまう。ただ、恐ろしいのはここからだ」

 社長は、指を一本立てる。初出勤時と同様、それは銃のトリガーに見えた。

「先ほど、このデスゲームは夢の中の話だと言っただろう? 夢の中で『ミズカラ』に殺された者は身体を乗っ取られ、現実世界でおぞましい事件を起こす」

「身体を乗っ取られる? つまり、殺された人間の身体を借りて、『ミズカラ』が現実世界にやって来るということですか?」

「そのとおりだ。『ミズカラ』には知性も感情もない。あるのは、人間を害するという本能だけ。身体を乗っ取られれば、そいつは刃物を手にして無差別に他人を襲い始める」

 僕の脳裏に、あるイメージが去来する。喧嘩の仲裁に入って殴られたときにフラッシュバックしたものだ。

 振り上げられたナタ。それから、金づち。

 刃物と鈍器を持った誰かと闘う僕。

 僕は深手を負っている。

 地面に伏した僕へ、相手が迫る。

 僕は相手の腰を掴む――。

 記憶の中で。その凶行を止めるために僕が闘っていたのだとしたら――。『ミズカラ』による被害を食い止めるために、僕が特殊な訓練を受けた人間だったら――?

「まあ、なんにせよ、あいつらはもうこちらに干渉できない。せいぜい波間をうろつくだけで精いっぱいさ」

「それは、なぜ?」

「詳しくは知らないが、数年前の大きな戦いで人類はやつらの親玉を潰すことに成功した。それによって『ミズカラ』たちは統制を失い、ああやってさまようことしかできなくなったらしい」

 大きな戦い。院長もそんなことを口にしていた。

「もともと、国は秘密裏に『ミズカラ』の存在を把握していたそうだ。そこで、科学から軍事力まで、持てる資源を注ぎ込んで討伐を開始したんだと。同時期に、『ミズカラ』を一掃するという志は同じとするものの、少し異なる価値観をもったレジスタンスも立ち上がった。レジスタンスを牽引していたのはサクラバという人間だったらしいが、彼は戦いの中で命を落とし、オオバなる人物が次期トップになった。このオオバというのが相当なやり手でね。国が『ミズカラ』討伐に大失敗した際に、その後の尻拭いを全部引き受けたのさ。そうして、レジスタンスが『ミズカラ』の親玉を消滅させた」

 僕が聞いているのは、この国の話なのだろうか。あまりにも突拍子なく、まるで想像できない。

 社長も、僕がそのすべてを一度に吞み下せるとは思っていなかったようで、にやりと笑ったまま首を振る。

「俺の知っていることは話した。さあ、もう帰って休め。あんまり怖い話ばかりしていると、怖いものが来るからな」


 デスゲーム。レジスタンス。そしてミズカラ。

 突如として降りかかったそれらの言葉について考える。この数時間で僕にもたらされた情報は膨大で、なおかつ現実味を欠いていた。

 僕が勤める神林運輸が、その実お祓いのようなものを業務の中核としていること。しかし、海に出没する黒い影たち――ミズカラたち――はその対象でないこと。それらは、とあるデスゲームに現れるモンスターであったこと。国が対処に乗り出したこと。そして、同時に立ち上がったレジスタンス。

 島の人たちは、そういったことを皆知っているのだろうか。そして、それらを信じているのだろうか。

 漠然とそんなことを考えながら、病院の自動ドアをくぐる。今日は定期受診だ。もともとは二週間に一度程度で、そのうち月に一度、ふた月に一度、と間隔を空けていく見通しだったのだが、クダン先生の一件から一週間に一度へと狭められていた。

 待合室に人はまばらだ。西日に照らされて、どこもかしこもだいだい色に染まっている。受付を済ませてから、僕は隅の丸椅子へと腰かけた。

 それほど長く待たされることもないだろう。そう踏んで、僕は新聞や雑誌を手に取ることもせず、ぼんやりとテレビを眺める。そこには、トウモロコシ畑に囲まれた道を進む一台のオープンカーが映されていた。どうやら四人組が乗り込んでいるようだが、顔までは分からない。

 以前から僕に付きまとって離れない疑念を思い浮かべてみる。

 ――もし、島の人たちが僕を「知らない人」として扱っていたら?

 それこそフィクションの世界になってしまう。けれど、それを否定できるような証拠もまた僕は有していない。

 記憶を失った人間に対して、超常的な情報を島ぐるみで吹き込む。呪いを事物から切り分ける運送業者とか、誰も存在を覚えていない予言者とか、デスゲームから出現した邪悪な存在とか。そして僕が、どんな反応を示すか記録する。

 いわば、壮大な心理実験だ。僕は海をうろつく影を見たが、それもどうだろう。最新の技術――たとえばプロジェクションマッピング――でも使えば可能なのかもしれない。

 ふと、目の前に誰かが立ちふさがった。僕は面食らいながらも視線をそちらに転じる。もとより、熱心にテレビを見ていたわけではないのだ(オープンカーは代り映えしない景色の中を延々と進み続けていた)。

 少女が立っている。

 十二、三歳くらいだろうか。もしかしたらもっと幼いかもしれない。胸元まで伸びた黒髪に紺色のワンピース。僕の知っている子ではなかった。

 じっと見下ろされている。

「君は?」

「私、フユ」

 落ち着いた声だった。

「ええと、フユちゃん。何か用かな?」

「クダン先生が、あなたに伝えてって」

 僕は目をむいた。

「クダン先生? 今、クダン先生って言ったの?」

 少女はそれに答えない。黙って、自動扉の向こうを指さす。

「『来る』って」

「来る?」

 少女は一度頷いてから、ぱっと駆け出して行ってしまった。

「あ、ちょっと」

 僕が腰を浮かせるのと、彼女が入院病棟の方へ曲がっていくのが同時だった。走り去った方向を慌てて覗き込むが、すでに彼女の姿はない。

 受付の看護師が怪訝そうな顔でこちらを見ている。

 これではクダン先生のときと同じだ、と思う。僕には手に取るように、その後の展開が予想できた。フユという子がここに入院しているかと誰かに尋ねれば、皆口をそろえて「そんな子は知らない」と言う。そして、話を聞きつけた院長と春日さんはいよいよ僕の状態が悪化したと見なして、入院の措置を本格化するだろう。

 僕はやはり、ありもしない妄想を創り出してしまっているのだろうか。

 努めて何でもないふうを装って、丸椅子に座り直す。胸がずきずきと痛んだ。深い穴が僕の心臓を喰らい尽くそうとしている。

 ――『来る』。

 何かがやって来るのだ。


 西日がほとんどその姿を隠す。

 それと同時に、院長と春日さん、それに数名の職員たちが待合室へと駆け込んできた。院長の低い声が響く。

「みんな、外に出ないで!」

 何が起こったのかと、待合室にいた人たちがざわつく。

 院長は受付のスタッフにてきぱきと指示を出した。

「私たちが外へ出るから、そうしたらシャッターを閉めて。自動ドアの電源もオフに」

 その周囲で、職員たちがばたばたとソファーや観葉植物を動かしている。バリケードを築こうとしているように見えた。

「何があったの?」

 ソファーを動かそうとするのを僕も手伝いながら、近くにいた春日さんに声をかける。

 彼女は困惑した表情で僕を見返してきた。どうやら、彼女も事情を呑み込めていないようだ。

「よく分かんないんだけど――海の影が一匹、陸に向かってるんだって」

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