第3章(3)戦闘

 いつか院長と行った桟橋には、漁師らをはじめ、十数人が集まっていた。

 日はほぼ沈んでいるが、折れた灯台の向こうに、波に紛れて少しずつこちらへ歩を進めている一つの影が視認できる。

 助力を申し出た僕を院長と春日さんはいぶかしげに見返したが、男手があるに越したことはないと考えたのだろう、一緒に連れ出してくれた。

「武器になるものは?」

「銛が何丁か」

 そんな物騒な会話が聞こえる。

「会社から車持ってこい。最悪、それで轢いてしまえ」

「ぼ、僕ですかあ?」

「ああもういい、俺が行く」

 スーツ姿の男が駆け出していく。

「どんな状況なのよ?」

 桔梗院長が近くの漁師に声をかけた。

「どうもこうも、ここらの連中がみんな船を引き上げて整備してたら、一匹こっちに来やがるのが見えたんさ。こんなこと初めてだ」

「やっつけられるの?」

「分からねえ。七年前は国のやつらだかレジスタンスだかが戦ったわけで、俺らは対処方法なんてこれっぽっちも知らないからな」

「然るべきところへ連絡は?」

「当然。組長のせがれたちがすぐにあっちこっちへ連絡を回したらしい。だけど、この島へ応援が来るよりも、アレの上陸の方が早いわな」

 一匹の影は、着実に近づいている。腰から上が海面より出ているが、それがそいつの浮力によるものなのか、それとも地面に足がついているのかは判然としない。ただ、足がつくほどの浅瀬に至っていてもおかしくはない――そう思えるほどに、それは距離を詰めていた。

「どうなるの?」

 春日さんが不安げな声を漏らす。

「分からない」

「怖いわ」

 春日さんが僕の肘の辺りを掴む。彼女の手が震えているのが分かった。

「おい、危ないぞ」

 何人かの声がする。

 影が上陸する前にと、五人ほどの男たちが銛を手に浜へと進み出ていた。

 影はすでに、太ももまで水面上に露出している。僕はそのとき初めて、それが単なる影ではなく、昆虫のように黒い光沢を放っていることに気がついた。

 五人は影を馬蹄形に囲み、中央の男が銛を突き出した。

 それはあっけなく、影の胸を――人間であれば心臓の辺りを――貫く。

 影が動きを止めた。束の間、静寂が訪れる。沖の方にいる他の影たちにも大した動きはない。浜の人々は皆、固唾を飲んで見守っている。

 影はゆっくりと、自分を串刺しにしている銛へと手を伸ばした。

「いかん、手を離せ!」

 誰かがそう言うのと、影が銛を抜き去って放り投げるのが同時だった。

 銛を握ったままだった男は、一緒に吹き飛ばされていった。大の男が数メートル宙を舞い、砂の上に転がる。

「まずい、下がれ下がれ」

 飛ばされた男に肩を貸しながら、銛を構えていた男たちは桟橋の方へと後退する。影はまた進み始めていた。完全に水の中を脱し、浜辺を一歩一歩踏みしめるようにして近づいてくる。

 エンジンをふかす音が轟いた。先ほど駆けていったスーツの男だろう。一台の軽トラックが浜辺を猛スピードで走って来る。

 躊躇なく、車は影へとぶつかった。

 ギョッという音が聞こえ、遅れて僕はそれがミズカラの鳴き声のようなものだと悟る。

 全身をしたたかに打ち据えられた影は、そのまま車輪の下へと巻き込まれていった。

 隣で小さく、春日さんが悲鳴を上げる。

「うまいこと轢いたぞ。降りてこい」

 運転席から、スーツの男が転がり出てきた。全員が遠巻きに、軽トラックを見つめている。

「やったか……?」

 祈るような声が聞こえる。

 と、車が揺れた。

「まだだ!」

 その声をかき消すように、自動車が甲高い音を立てて裂けた。それは、損壊と呼べる類のものではなかった。紙のように容易く引きちぎられたのだ。

 二つに分かれた車体の間から、影は立ち上がった。

 打つ手を失った人々は、立ち尽くすしかない。

 影はゆっくりと首を回す。とても満足げに。

 ふと、春日さんがしがみついているのとは反対の手のひらに温もりを感じた。

 見ると、先ほどの少女――フユが僕の手を握っている。

「フユちゃん、どうしてここにいるの?」

 春日さんも気付いたのか、そう声を上げる。

「知ってる子?」

「うん、小児棟に入院してるの」

 僕らのやり取りをよそに、フユはじっと影を見つめている。

「来るよ」

 フユの凛とした囁きが僕の耳に届く。

「思い出して」

「思い出すって、何を?」

 フユは、ミズカラを指さす。

「アレとの闘い方」

 そのとき、影が初めて俊敏な動きを見せた。走り出したのだ。

 真っ直ぐ、僕たちのいる方向を目指して。

 思わず、僕は春日さんとフユを突き飛ばしていた。直後、影の両手が僕の肩をわしづかみにする。

 僕は影を引きはがそうとしなかった。むしろ、そのぬるりとした手首をつかみ、自分に引き寄せる。もし影が僕をどうにかしてしまっても、春日さんたちが逃げる隙を作らねばならない。

 影は僕の全身を持ち上げ、振り回す。僕は手を離すまいと必死だった。

「みんな逃げて!」

 声を振り絞る。

 その瞬間、真っ黒な腕が僕の胸を貫いた。


 真っ暗だった。

 ぶくぶくとくぐもった水温が聞こえる。

 影は僕を海へと放り投げたらしい。

 目を見開く。

 腕に、脚に力を込めた。

 胸を貫かれたからといって、何の問題があるのだろうか。そこにはすでに穴が空いているのだ。この世の何よりも深い穴が。


 ――ねえ。


 誰かの声が聞こえる。


 ――××をよろしくね。


 何かが弾けた。僕は××を守らなければならないのだ。名前も思い出せない、彼女を。

 胸に手を当てた。物理的に受けた傷は、もう塞がっている。

 そのまま僕は、やみくもに手を動かし、海面へと浮上した。


 ミズカラは、桟橋の方へと着実に歩を進めていた。人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。その反対側で、春日さんがフユの手を引いているのが見えた。

 水を掻く。僕が沈んでいたのはおそらく浅瀬だったのだろう。数掻きで浜へたどり着いた。

 走る。ただ腕と脚を動かした。

 頭は冴えている。これ以上なく冷え冷えと。何かがみなぎっていた。

 ミズカラが頭をぐるんぐるんと回した。

 ――方向転換する。

 それが分かった。やつは、春日さんとフユを狙うつもりなのだ。

 案の定、影は彼女たちの方へ向き直った。春日さんがフユを抱きしめる。かばおうとしているのだ。影はあと数歩で彼女たちにたどり着く。

 その頭めがけて、僕は拳を叩き込んだ。


 一瞬だった。

 水風船が割れるような音を立てて、ミズカラの頭部が破裂する。

 失われた頭を探し求めるように、その腕が宙をさまよった。それから、その胴体もどろりとしぼんで消えてしまった。

 後には、水たまりだけが残された。

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