第3章(1)禍
クダン先生はいなくなってしまった。この島からも、皆の記憶からも。
院長はやはり、彼に関する一切を忘れていた。クダン先生を探してくれと電話を掛けてきたはずの春日さんも、「えっと、クダン先生って?」と首を傾げた。僕と一緒に彼と話し、彼のことを探したはずの夕子さんも「あのとき店にいたのは、常連の白壁さんだろう?」と言い出している。
啓示めいた言説だけを残し、モスマンは消えた。
誰もが彼を覚えていない。僕が僕自身を忘れているように。
冷たいようだが、僕は彼の不在そのものに寂しさを感じているわけではなかった。自分の記憶していることが、他の人たちと一致しない。その疎外感が、僕の胸の穴を一層深くしたのだ。
院長は、僕がクダン先生について話すのを一種の悪い兆候だと捉えたらしい。つまり、環境の変化や肉体的な疲れによって僕がありもしない妄想を抱いていると解釈したのだ。
遠回しに、しかもこの上なく柔らかく、僕は休職と再入院を勧められた。
僕自身、自分の記憶に自信はない。他の人が言うように、クダン先生はもしかしたら僕が作り出した空想上の人物なのかもしれない。談話室での一連の会話は僕が見た夢に過ぎず、退院の際にかけられた「名を取り戻すのだ」という言葉は全然違う人物の全然違う言葉だった――そう考える方が自然なのだろう。
結局、僕はモスマンに関するすべてをあきらめることにした。
「すみません、ちょっと混乱しちゃってたのかもしれません」
微笑みを浮かべながら、院長と春日さんにそう言った。疲れているのかな、いや、もしかしたら気を引きたかったのかも、新しい環境でも頑張っている自分を見てほしくて――。
本心ではなかった。でも、僕の口はすらすらとその嘘を吐き出した。
そして、胸の穴は広がっていく。
そんな折だ。勤め先の社長から、「業務の内容を説明させてくれ」と言われたのは。
「改めて、きちんと説明をしておこうと思ってね」
椅子に座った社長は、ひときわ「ボス」としての存在感を放っていた。
「実は昔、大きな事故があってね。俺が迅速な業務説明を怠ったために、犠牲を出してしまった」
社長は「犠牲」と言った。普通、事故と言えば「怪我人」とか、せいぜい「被害者」ではないのだろうか。僕の疑問をよそに、社長は話し続ける。
「簡単に言うと、この会社で請け負っているのは、集荷、梱包、そして積載だ。ただ、扱っているのは普通のモノじゃない」
社長室には西日が差している。社長は孫の手で肩をリズミカルに叩きながら、先を続けた。
「扱っているのは禍だ。ワ・ザ・ワ・イ」
一字ずつ区切ってくれるのはありがたいが、肩を叩いているせいで一文字一文字が震えている。そのためか、どこか間抜けな言葉に聞こえた。
「ちょっと分かりにくいかもしれないが、『怖い話をしていると、怖いものが本当に来る』って聞いたことあるだろう?」
「ええ」
僕はうなずく。僕自身がどこでそれを耳にしたのかは分からない。どこまでもありふれた、茶目っ気と緩やかな脅しに満たされた言葉だ。
「怖い話をしても、怖いものが来ないようにするのが俺たちの役目でね」
言いながら、社長は一冊の本を取り出した。何の変哲もない文庫本だ。タイトルや帯から察するに、ミステリー系の長編らしい。
無造作に頁をめくり、中ほどを開く。次に筆ペンを手に取ったかと思うと、片方の頁にぐりぐりと殴り書きをしてしまった。そして、こちらに向けて本を立てる。
一方の頁には活字が並び、もう一方の頁は黒く滲んでいる。
「怖いモノの中には、たいてい本物が紛れ込んでいる。火のないところに煙は立たない。つまらない怪談の中にも、本質としての禍が潜んでいることがある」
本質としての禍。
話の輪郭がつかめるような、つかめないような、そんな不確かさが僕を包む。
「禍を含んだモノが世の中に流布してしまうと、その話を知っている人間のところへ禍が降りかかる。つまり、『怖い話をしていると怖いものが本当に来る』だ」
そこまで言うと、社長は黒く塗りつぶした頁をちぎり取った。社長の左手に本、右手に黒い頁が握られている。
「だから俺たちは、危険なモノを集禍する。怖い話、小説、呪いの動画や品物。そして、禍とそれ以外を分けて梱包する。さらにそれをトラックへ積載し、禍は然るべき場所へ運んで祓う。それ以外は、世の中に戻す」
言いながら黒いページの方をくしゃくしゃと丸めた。
「簡単に言えば、呪われたモノがあったとして、俺たちはそのモノと呪いを引きはがす。そして、呪いだけを梱包した段ボールを一方のトラックへ、もう呪われていないそのモノをもう一方のトラックへ運び込むわけだよ」
僕はゆっくりと頷く。
僕の理解はおぼろげだ。そもそも、今の話で十を知れというのは不可能と言える。社長もきっとそれを分かっているのだろう、探るようにこちらの顔を覗き込んでくる。
全ては曖昧模糊としているが、少なくとも、自分がどんな仕事の一端を担っているのかは分かった。
「つまり、いろいろな事物から、悪いモノとそうでないものを分別して、別々にトラックで運搬するということですね? その積み込み作業が、今僕のやっている仕事だと」
「理解が早くて助かる。そういうことだ。だから、段ボールを積み込むトラックは絶対に間違ってはならないし、段ボールを開けてもいけない。悪いモノを再び世に送り出したくはないだろう?」
社長が最初に言っていた「大きな事故」について、なんとなく想像がついた。きっと、従業員の誰かが段ボールを開けたのだ。そして、呪いだか悪いモノだかが解き放たれ、「犠牲」が出た。
普通ならば、社長の話をすぐに飲み込むことなんてできないのかもしれない。「ああそうですか」と合点するのには、あまりにも現実からかけ離れ過ぎている。
しかし、僕は記憶を失い、海には怪しい影がうろつき、クダン先生は消えたのだ。もう何を現実と言っていいのか、僕には分からなかった。
僕は院長や春日さんに向けたのと同じ微笑みを浮かべる。
「全部は分かりませんが、ご説明していただいたことと、自分の責務は理解したつもりです」
「よろしい」
社長は満足げに頷く。
その瞳の奥に、鋭い光が一瞬差したような気がした。この人は分かっている――僕が半ば捨てばちになっていることを。社長の言葉を真剣に受け止めるには胸の穴が広がりすぎてしまっていることを。そう直感する。
その視線にいたたまれなくなり、僕は必死で別の話題を探した。
「海に現れる、あの黒い影たちも、その『悪いモノ』なんですか?」
予期せぬ質問だったのだろうか、社長は面食らった表情を浮かべた。
「ふむ。あの邪悪なものたちのことだね」
邪悪なもの。僕を海に連れ出した日、院長も同じことを言っていた。
――大きな戦いが起きる。
モスマンの言葉を思い出す。
――とてつもない危険が、今まさにこちら側へやって来ようとしている。
「あれは、俺たちが対象としているものとは似て非なるものだ。俺たちは、ある事象の中に紛れ込んだ悪いモノを除去するために動いている。しかしあの海をうろつく影は――何というか――純然たる邪悪と言えるだろう」
「純然たる邪悪」
「うむ。呪われたネックレスなら、呪いとネックレスを引き離すことができるだろう。それは俺たちの領分だ。しかし、あの『邪悪なもの』たちはそういう類の連中じゃない。元から、頭のてっぺんから足先まで、悪しきものなんだ。俺たちが相手取るターゲットとは言えないな」
「でも、ここの社員さんたちも、悪いモノを祓うことができるんですよね? 事物そのものと禍を切り分けた後で」
社長はにやりと笑った。僕が食い下がるのが面白かったらしい。
「君は賢いようだ。白状しよう。俺たちではあれに敵わない。言うなれば、俺たちの武器は禍とそうでないものを切り離す器用さにある。だから、器用さよりも真正面からの力比べを求められるような相手には、どうにも分が悪い」
社長が腹を割って話をしてくれたのか、それともやはりはぐらかされているのか、僕には判別できなかった。
僕は、あの影たちのことをもっと詳しく知っておきたい。それは、春日さんにかけられた言葉も多分に影響しているだろう。
――竹島さんが、やつらと密接に関わりがあったということなんじゃないかって。
僕は、邪悪なものとどんな関わりをもっていたのだろう。邪悪なものと敵対する存在だったのか。それとも、僕自身が邪悪なものだったのか。
社長は僕の表情をじっと見つめている。
やがて、深く息を吐いた。
「業務の説明は終わったんだがね。ここからはサービスだ。俺の知っている限りの、あの邪悪なものたちの情報を伝えよう」
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