第2章(3)件

 仕事を終えた帰り道、いつものように「きみどり」の暖簾をくぐる。早いもので勤め始めてから一週間が経ち、明日は初めての週休日だ。生活のルーティンは順調に整ってきている。

 夕子さんには毎度のように仕事はどうかと問われ、僕は些細なことまで報告していた。紫苑さんにコーヒーをおごってもらったとか、根目沢さんの作業スピードには目を見張るとか。

 今日は何を話すとよいだろう。そういえば、紫苑さんに一本だけもらい煙草をして、自分が少なくとも煙草をたしなんでいた人間ではないことが分かった。咳き込む僕を見て社長が「アルハラならぬタバコハラスメントだ」と茶化し、紫苑さんが慌てて否定していたっけ。夕子さんが聞けば、きっといつものように豪快に笑ってくれるに違いない。

 しかし今日は、先客がいた。

「あれ? クダン先生」

 クダン先生はカウンターの隅に陣取り、ちびちびと日本酒を含んでいた。脇には、蛾の標本が置かれている。

「来たか。迷える青年よ」

「何、アンタら知り合いなの?」

 夕子さんが口を挟む。

「病院でお世話になって」

 そう説明すると、夕子さんは意外そうに眉を吊り上げた。

「ふうん。病院の先生? 見かけたことないけど。うちに来るのは初めてよね」

 夕子さんの問い掛けに、クダン先生は柔らかく微笑むだけだ。

 患者です、と僕から言うのもはばかられ、曖昧な頷きでごまかす。夕子さんは何かを察したのか、それ以上追究しようとしなかったので助かった。

 クダン先生はなぜここにいるのだろう。もしかしたら退院したのかもしれない、と思った。蛾の標本を肌身離さず持ち歩くことを除けば、生活能力に問題はなさそうに見えたからだ。

 いつものように夕飯を出してもらい(今日は赤魚の煮付けだ)箸を進めていると、クダン先生が身を乗り出すようにしてこちらを覗き込んでくる。

「春日嬢は救えたか?」

 僕は面食らう。

 ――「クダン先生の予言ってホントなのかも」

 そんな春日さんの声が蘇ってくる。

「ええ、まあ」

 なんとも煮え切らない返答をしたものだ。しかし、クダン先生は満足げに頷いた。

「それで、名は?」

 名前。クダン先生は、僕がそれを取り戻したかどうか聞いているのだ。

「いえ、まだ模索中です」

「うむ。急ぐのだ。間に合わなくなる」

 間に合わない。何に間に合わないというのだろう。そして、僕は何を急げばよいのだろう。

 夕子さんは食器類を片付けながら黙っている。静かに聞き耳を立てているのが分かった。

「人は進化の過程で言葉という奇跡を見出した。そして彼らは、道具を名付け、現象を名付け、脅威を名付け、自分自身を名付けた。名付けるということは、共有すると言うことだ。名付けるということは、理解するということだ。名付けるということは、自分のものにするということだ」

 矢継ぎ早にそう言ってから、クダン先生はお酒で口を湿らせた。

「名は至るところにある。そして君は、その無限の中から、たった一つを見つけ出さねばならない。並大抵のことではないぞ。それ故に、あらゆる名に対して感覚を研ぎ澄ましておくことが肝要だ。たとえば――」

 彼はそこで言葉を切り、指を一本立てる。

「君はこの島の名を知っているか?」

 この島の名前。そう言えば、僕は考えたこともなかった。誰かに尋ねようとしたことも。

 正直に、知りません、と答える。

「網の目を張り巡らすのだ。この島の名、人の名、森羅万象の名に。して、貴方は知っているかね、この島の名を」

 突然話を振られた夕子さんは、戸惑いを隠そうともせず顔を上げた。

「それって正式名称? それとも通称? 正式名称の方は長ったらしくてよく覚えてないわ」

「無論、後者で構わない。名は変化する。我々が触れる随伴性に合わせて姿を変えながら、脈々と、連綿と続くのだ」

「通称ね。それなら言えるわ」

 夕子さんは金色のショートヘアをかき上げた。ヘアワックスで固めてあるのか、それはざらりと音を立てた。

「――“葉島”」


「ごちそうさま」

 クダン先生が立ち上がり、しわくちゃな五千円札をカウンターに置く。

「これで足りるかな?」

「もちろん。待ってね、今お釣りを」

「取っておくといい。もしよろしければ、彼の分に充ててくれ」

「あらやだ、イケメンね」

 クダン先生は標本を大事そうに抱える。

「もう会うこともないだろう。悪しき者たちはやがてやって来る。達者でな」

 その言葉をどう解釈すればいいか考えあぐねているうちに、彼はさっさと店を出て行ってしまった。

 僕と夕子さんは取り残される。

「なんか、不思議な人ね」

 夕子さんが狐につままれたような顔をしている。

「ええ。僕もつかみきれなくて」

 クダン先生について、そんなやり取りを交わす。

 と、僕の携帯電話が鳴った。旧式の二つ折りで、必要最低限しか使っていない。

 画面を見ると、春日さんの名前が表示されている。

 夕子さんに断りを入れてから、僕は通話ボタンを押した。

「竹島さん?」

 彼女の声からは少し切羽詰まった印象を受けた。どうしたのだろう?

「クダン先生見てない? 病院からいなくなっちゃったらしいの」


 どうやら彼は無断で病院を抜け出したらしく、職員が方々を探し回っているそうだ。僕は「きみどり」で彼と会ったことを説明する。

「今さっき店を出て行ってしまったんだけど」

「分かったわ。私もそっちに向かうし、院長にも連絡入れてみる。そっちの方は院長が回ってるはずだから」

 通話を切って夕子さんに事情を説明する。

「まだ遠くには行ってないはず。外見てみよ」

 二人して引き戸の外へと飛び出す。しかし、すでにクダン先生の姿はない。

「あちゃー、もう少し引きとめておけばよかったね」

 夕子さんが頭を掻く。

「そう遠くまでは行ってないはずですけど」

「手分けして、近くを探してみる?」

「お願いしてもいいですか? すみません」

 しかし、クダン先生は見つからなかった。それほど入り組んだ場所ではない。彼の足でこんな短時間にこの通りを抜けることなどできるのだろうか?

「いないね」

「ええ」

 僕と夕子さんは店の前で途方に暮れる。と、夕子さんが僕の背後に向かって手を振った。

「めぐちゃん」

 振り返ると、桔梗院長が歩いてくる。春日さんから連絡がいったのだろうか。

「あれ、どうしたの? 二人して」

 院長の様子に僕は違和感を覚えた。どう見ても人を探しているふうではない。

「すみません、クダン先生のことを聞いてすぐに探したんですけど、結局見つからなくて」

 説明を試みるが、やはり院長はぽかんとしている。見かねたのか、夕子さんも助け舟を出してくれた。

「そのクダンって人のこと探してたんでしょ? さっきまでこの子と一緒に、ここら辺を見て回ってたのさ」

「ちょっと待って」

 院長は困り顔で手を振った。これがもし演技なら大したものだ。

「ねえ、二人とも何の話をしてるの? 私は仕事が終わって、久々にここで一杯と思ってきただけ。そもそも、?」

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