第5章(3)正体
全身に力を込め、水を掻いた。海面へ浮上した僕は、橋桁に手を掛ける。
橋の上へ身体を引き上げるのに、力はほとんど必要なかった。
「ありがとう。思い出したよ、全部」
服にまとわりつく木くずを払いながら言うと、大場スミは微笑んでみせた。
「桜庭は僕の半分。うまい言い方だ」
「私たちはもとの人間じゃない、というのは桜庭さんが出してきた仮説ですよ」
「そのとおり。これで僕の唱える説が、また支持されたわけだ」
「どうだか」
僕と大場スミは、一度ミズカラに殺されている。
本来なら、身体をミズカラに乗っ取られて、現実世界で凶行を起こすはずだった。
しかし、僕らは――この身体を乗っ取ったミズカラは、例外的に宿主の記憶を受け継いでしまった。そのため、殺害衝動が抑制されている。そして代わりに、僕らはミズカラの力を手にした。彼らは水から現れ、水に消えていく。僕らは水に濡れると、尋常でない力を発揮できた。
もっとも、これは僕の考えた仮説に過ぎず、大場スミは僕らが愛の力とやらでミズカラを抑え込んでいると信じたがっている。というのも、僕らは特定の人間に異常なまでの執着を見せたからだ。彼女は育ての親、そして僕は君野梨歩。
――君野梨歩。
僕が洞窟から救い出した人。全てを投げ出してでも守ろうとした人。
「彼女はなぜ死んだ?」
濡れそぼった僕らは向かい合う。塞がることのない胸の穴がずきずきと痛んだ。
大場スミは悲しげに目を伏せる。
「交通事故です。ミズカラとは何の関係もない、ありふれた事故」
ありふれた事故、と僕は繰り返す。そのせいで、僕が命を賭して守ってきた人が逝ってしまった。あっけなく。
「彼女がいなくなったことで、僕は――君の仮説で言えば『僕の中のミズカラ』が――一時的に暴走状態になったんだろう。そうして、僕は『水脈』を抜け出しここへたどり着いた」
こことは異なる次元に存在する、洞窟の中心部。それが「水脈」だ。
「きっとそうなんでしょうね」
大場スミはこともなげに言う。まったく、僕がこうして答えにたどり着くまで、どれだけの苦労をしたのか分かっているのだろうか。僕は苦笑した。
「それで? 『ファーザー』の復活を阻止するんだろう?」
「もちろん。猶予はほとんどないはずです。だから、決行は今夜」
「今夜?」
急な話だ。それだけの勝算があるということだろうか。
大場スミは、僕の反応からその疑問を汲み取ったらしい。
「勝算はあります。というか、今それが確実なものになりました」
「つまり、僕の協力というわけだ」
彼女は頷く。何度も。
「買い被り過ぎだよ。そもそも、僕が記憶を取り戻さなかったらどうするつもりだったんだ」
「信じてました」
「僕を?」
「いえ、自分自身をです。私と会えば、桜庭さんは必ず記憶を取り戻してくれるって」
大した自信だ。僕は声を上げて笑う。そんなことは久しぶりだった。
はたから見れば、恋人同士のじゃれ合いにでも見えたかもしれない。
「それで、作戦は?」
「桜庭さんと私が、『水脈』へと降りる。そこで『ファーザー』の残骸をぶっ叩く。以上」
「以上?」
「ええ。以上」
「作戦って言葉の意味、知ってる?」
「当然ですよ。というか、テンション上がるのは分かりますけど、急にコミカルな感じを出さないでください。そんなの、もとの桜庭さんのキャラでもないじゃないですか」
軽口を叩き合う余裕も生まれている。大場スミには感謝しないといけないだろう。
「ま、作戦がざるなのは、それだけ桜庭さんのことを信頼してるってことですよ。さあ、もう行きましょう。白井たちが本部を立ち上げているはずですから」
「本部って、どこに?」
「病院の待合室」
僕らは並んで歩き始めた。陽はその姿のほとんどを地平に隠している。
振り返ると、沖の方に無数のミズカラたちが出現していた。そして、彼らは皆一様に、浜の方を向いている。
「来るね」
「ええ。来ます」
「猶予がないっていうのは本当らしいな」
「そりゃ、それだけの情報を集めていますから。うちの予想は正確です」
道中、大場スミからより詳しく体制の概要を聞くことができた。作戦はざるだと言いつつ――確かに大場スミと僕については大雑把な代物だったが――その実、浜にミズカラたちが上陸した場合の対処法や島民の避難のことはよく考えられていた。
「つまり、今はレジスタンスの面々が手はず通りに島民を避難させているわけだ。そして、手の空いた者からミズカラたちの動きを止めると」
「ええ。そういうことです」
レジスタンスたちはミズカラと闘う術を身に付けている。船や車を敷きつめて上陸を遅らせ、それをかいくぐったミズカラから順に叩いていくのだそうだ。
病院の前に立つ。中に、多くの人間がひしめいているのが見えた。おそらく、レジスタンスの面々と、これから避難する入院患者やスタッフたちだろう。
「行きましょうか」
大場スミはさっさと自動扉をくぐっていく。僕も後に続いた。
注目を浴びているのが分かる。
僕らが姿を現してから、院内はしんと静まり返った。
モニターや機器を設置していると思しきレジスタンスたち。彼らの中からは「桜庭さん」「本物だ」などという呟きが聞こえる。その中心に、白井さんの姿も認められた。彼女は相変わらず、憮然とした表情を崩さない。
受付の前には、病院関係者と患者たちが列を成していた。手前に、院長と春日さんの姿も見える。
「状況は?」
大場スミの一言で、レジスタンスたちは我に返ったようだ。慌ただしさを取り戻し、白井さんが前へと進み出る。彼女はモニターを指した。
「観測成功です。おそらく、『水脈』内には『ファーザー』しかいないかと」
大場スミとともに画面を覗き込む。等高線の刻まれた、洞窟らしき立方体。そこに、赤い円が一つだけ点滅していた。
「幸運ね。私たちはミズカラを相手取る必要がなさそう」
大場スミがこちらを振り向いて言う。
「便利な技術ができたもんだ。僕のときはこんなのなかった」
「まあ、国が開発したものを譲り受けただけですけど」
「異次元にあるものの観測なんて、本来できるわけないのに。――で、これが神殿?」
立体図を指さすと、彼女は頷いた。
「ええ。手前側が水路です」
「ということは、この中心が『ファーザー』のいる玉座。そしてその向こうが――」
大場スミと視線が交差した。
「そう。階段です」
「それと、無数のドアとね」
神殿の中は熟知している。僕は長い時間をそこで過ごしたのだ。ミズカラや「ファーザー」に囲まれながら。大場スミは一度だけそこを訪れたことがあった。行った者しか分からない会話。僕らは共犯者めいた笑みを交わす。
「さあ、皆さんは避難を」
白井さんの促しで、受付前の列がぞろぞろと動き始める。
「記憶が戻ったのね?」
院長に声をかけられる。
「ええ。なんとか」
「なんだか、あなたはすごい人だったらしいじゃない」
「そんなんじゃないです。でも、皆さんに恩返しができそうでうれしい」
「危ないことをするんじゃないよ。それじゃ」
踵を返す院長の向こうで、春日さんが僕を見つめていた。常に僕を救おうとしてくれた彼女。その一瞬で、彼女との記憶がよぎる。名前を決めかねていた僕に、声をかけてくれたこと。退院の日、困ったら相談するよう電話番号のメモを渡してくれたこと。ベッドに腰掛け、困り顔で手当てをしてくれた夜。怖いと言って僕の袖をつまんだ彼女。
春日さんは何も言わなかった。どこか悲痛な面持ちで、唇を噛んでいる。
僕は、黙って頷く。それで十分だった。
彼女がそれをどう受け止めたのかは分からない。全て終わった後、彼女は彼女でその意味を解釈すればいい。そして、僕は僕で、僕の意図が伝わったと信じ続ければいいと思う。
列から誰かが飛び出した。太ももに衝撃を感じる。
「――フユ」
少女は僕の脚にしがみつき、うるんだ目でこちらを見上げていた。ミズカラに襲われた恐怖で、言葉を発せなくなった――そう聞いたのを思い出す。
彼女はいやいやをするように首を振った。
「大丈夫だよ、フユ。悪いものは全部やっつけてくるから」
フユは再び首を振る。
そして、その口を開いた。
「帰ってきて」
かすれた、長く発していなかっただろう声。
それは真っ直ぐに僕を射抜いた。
「ちゃんと帰ってきてね」
少ししてから、僕は「うん」と返す。
「分かった。絶対帰ってくるから」
そして、彼女を院長に引き渡す。フユは何度も振り返りながら、自動扉の外へ消えていった。
「子どもには敵わないな」
「そうですね」
僕の言葉に、大場スミが微笑む。
フユは見抜いていたのだろう。そしてきっと、大場スミも。
記憶を取り戻してからずっと、僕が抱いてきたもう一つの目的を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。