第2章(2)春日さん
勤務初日はつつがなく終わった。もとより流れてきた段ボールをトラックへ積み込むだけの仕事なのだ。問題を起こす方が難しい。
「きみどり」に向かって歩を進めながら、今日出会った人々の顔を思い浮かべる。社長、紫苑さん、そして根目沢さん。皆風変わりではあるものの、僕のことを詮索せず受け入れようとしてくれるいい人たちだ。
初日におこがましいかもしれないが、あそこでならやっていけるような気がした。毎日段ボールの世話をし、とりとめなく雑談し、そのうちに初任給が入り――。
初任給、と考えて、僕は春日さんのことを思い出した。初任給が入ったら彼女を食事に誘おうと考えていたことが、遠い過去のように思える。
酔った男たちに絡まれていた彼女。僕のことを驚いたように見つめていた彼女。
そのまま僕は、昨夜の記憶に引きずり込まれる。
男たちが退散した後、飲み会はお開きになったらしい。
春日さんは半ば強引に僕を家へ連れ帰った――彼女の家にだ。まず、有無を言わさず僕にシャワーを浴びさせる(なんせカクテルまみれだったのだ)。シャワーを終えると、脱衣所に上下のスウェットが置いてあった。僕は少し迷ってから、それに身を包む。丈が短かったから、きっと彼女の部屋着を貸してくれたのだろう。
部屋に戻ると、すでに彼女はゆったりとしたパジャマに着替えていた。ベッドに腰掛け、ぶらぶらと足を揺らしている。
「座っていいよ」
促され、僕も彼女の隣に腰を下ろす。
ベッドも調度品も、淡いピンクだった。女性の部屋にいる――そのことを改めて痛感し、僕はどこを見ればいいか分からなくなる。先ほどまでの彼女の服装と、部屋の雰囲気が丸っきり異なっているのも、僕の混乱を一層激しくさせた。
「ねえ」
「はいっ?」
上ずった返答が面白かったのか、彼女は少し笑う。そしてその後、険しい顔つきになる。
「なんであんな危ないことしたの?」
僕の身を案じてくれているらしい。そのまま僕の顔に手を伸ばし、殴られた跡をそっと撫でる。
「困っていそうだったから」
「そりゃ困ってたわよ――そうね、まずはありがとうって言わなきゃね。ここ、絆創膏貼ったげる」
一人暮らしには不釣り合いなほど大柄な救急箱を膝にのせ、彼女はてきぱきと処置をする。さすがは看護師といったところか。
「明日から出勤でしょ? こんなとこに傷なんて作っていったら、どう思われるか」
「問題ない」
僕は言う。問題ない。正直に事情を説明すればいいだけだ。
「あれ、どうやったの?」
「あれって?」
「あの、脚の付け根をぐりぐりって」
「僕もよく分からない。とっさに動いたら、あんなふうになっちゃったんだ」
とっさの行動だったのは間違いない。ただ、あのときの僕は妙に冷静で、全ては明確な意図のもとに引き起こされた。それをどうやって説明したものか分からない。
「それにしては慣れてる感じだった。まるで今までに何度かやったことがあるみたいに」
彼女と目が合う。何かを訴えかけるように、彼女は僕を見上げている。救急箱を膝にのせたまま。
何か思い出したの? そんな声が聞こえるような気がした。
僕はゆっくり首を振る。
「悪いけど、何も思い出せないんだ。僕がなぜあんなふうにできたのかも」
あのとき、一瞬フラッシュバックした映像は何だったのだろう。刃物と鈍器を持った相手に迫られていた僕。なんとなく、それは話さないでおく。わずかな間ちらついたイメージを離したところで何にもならない――それに、彼女が僕の出自を恐れて、離れていってしまうことも怖かった。
「そっか」
彼女はそれ以上詮索しなかった。
「でも、無茶な真似はしないで。助けてもらっておいてごめんけどさ、竹島さんはつい先日まで入院してたんだよ?」
そう言いながら春日さんはぺしぺしと僕の肩を叩く。
「うん、分かってる」
「ほんとに?」
「ほんと」
「ならよし」
紅茶とコーヒーどっちがいい? と僕に尋ね、彼女は立ち上がった。
じゃあコーヒー、と言うと、ごめんね紅茶しかない、と舌を出す。笑いながら、なら紅茶で、と返事をした。キッチンでガスコンロのスイッチを入れる音がする。
「クダン先生が言ってたの、このことだったのかな?」
彼女の声がする。
「クダン先生が?」
「ほら、『救われることになる』って言ってたじゃない。私が竹島さんに」
「ああ」
今の今まで忘れていた。そういえば、談話室でそんなことを言っていた気がする。
「私、占いとか信じる方じゃないんだけどさ。今回ばかりはクダン先生の予言ってホントなのかもって思っちゃうよね」
「確かに」
彼は僕に「名を取り戻すのだ」と言った。でも、その手掛かりなどどこにもありそうにない。殴られたときのフラッシュバックが手掛かり足り得るだろうか? しかし、望みは薄そうな気がした。刃物と鈍器を振り回す人間なんて溢れかえっている。
春日さんがお盆を手に戻って来る。カップとソーサーがかちゃかちゃと音を立てた。彼女はそれを、ベッドの前にある円卓に置く。
「まだ数分待ってね」
そう言って彼女はティーパックの尾をひらひらさせた。
ありがとう、と頷いてみせ、僕は再び思考の波にさらわれる。
僕は一体誰なのだろう。船乗りでもやっていて、何かの拍子に海へ呑まれたのだろうか。しかしそれでは、他人をあれほど自然に傷つけられた説明がつかない。特殊な訓練を積んだ捜査官(あるいは大犯罪人)で、任務中(あるいは逃走中)に事故にでも遭ったのかもしれない。そんな映画のようなことが現実に起こり得るのだろうか。
そして僕は、また別の可能性に辿り着く。
――もし、僕がもともとこの島で暮らしていた人間だとしたらどうだろう。
荒唐無稽な話だと思った。でも僕は考えるのをやめられなかった。
この小さな島に住んでいた人間なら、誰かが見知っていないとおかしい。
しかし、別の意図があったとしたら?
もし何か事情があって、島ぐるみで僕を「知らない人」として扱っていたら?
僕の記憶がないのをいいことに、何かを隠蔽しようとしている。あるいは、僕が記憶を取り戻すのを待っている。では、なぜ――?
「何考え込んでるの?」
春日さんの声で僕は一気に現実へと引き戻される。
「いや、何でもない。僕って誰なんだろうって。今まで何回も自問してきたことだよ」
彼女はじっと僕のことを見ている。
「焦っちゃだめだよ。まずは、今の生活を整えないと」
「うん、分かってる」
分かっている。この上ないくらいに。
彼女に心配を掛けさせまいと、別の話題を探す。
「そういえば」
「うん?」
「前に何か言いかけてたよね?」
「私が? いつ?」
「ほら、談話室で話していたとき。海の黒い影を見たって話から、僕が自分のことだけを忘れている全生活史健忘だって話になって」
「ああ」
彼女はあのとき、「そうなると奇妙ですね。だってあれは――」と言った。一体何を言おうとしたのだろう。それが、僕の中にあれ以来いつも引っ掛かっていた。
「竹島さんが、あの影のことを忘れてしまっているのが気になったの。少なくとも七年間、あれはずっと沖をうろつき続けている。それも、この島だけじゃなく、全国各地のあらゆる海でね」
それは初耳だった。あの影たちは、全国に出没しているのだ。同時に、彼女の言わんとすることが分かってきた。でもそれは、まだ薄ぼんやりとしている。
「たとえ海辺に住んでいなかったとしても、ニュースにもなったし、やつらの映像なんてごまんと流れてる。いわば、やつらの存在は私たちにとって生活の一部みたいなもんよ。だから、竹島さんがそれを一切忘れてしまっているということは――」
彼女は一度、そこで言葉を切った。ためらうみたいに。
「竹島さんが、やつらと密接に関わりがあったということなんじゃないかって」
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