2−5:チェーホフの銃
どれ程考えても、脳の奥をかき漁っても、私の記憶は存在していなかった。
より正確にいえば、私がこの地に訪れると決めたより以前の記憶は何も無い。上海の裏カジノで大敗したその瞬間から、記憶は暗い深淵に呑まれている。
名前、生年月日、住所、家族構成。住民票に記入される情報は何一つ残っていない。
私は誰だ?
その言葉を口にした訳では無かった。
だが、老人はそれに呼応した。脳を直接覗き込んまれている。陰謀論じみた推測すらも今更、驚く事もない。
【無知と無謀に気づく前に、銃を私に向けるのは果たして道理に適っているか?】
その音を渡るように、私は容赦なく引き金を引いた。
宵闇に閃くマズルフラッシュ。月光を裁断し、力強い文明の音が草原に響き渡る。
ウェブリー455口径弾。265gの重厚な弾頭は初速210m毎秒で飛翔する。同時期の弾丸でも比類ないマン・ストッピングを誇るそれは、寸分違わず老人の虚空を貫いた。
【無謀だと分かっているはずだ】
老人は微動だにせず、絨毯に座している。銅ニッケル被膜に覆われた質量弾は何の効果も齎さず、虚空へと消えた。
「そういうアンタだって、全てを知りながら私を試すような真似をしてる。其処に何の差がある?」
【全てを知っている訳ではない。故に、我は此処にいる。故に、彼奴も次元の狭間から顔を覗かせた】
「つまり、私が見た宇宙海葡萄とお前は別物だって訳だな?」
【我はナイアラルトホテプ、奴はヨグ=ソトース。別々の神格だ】
其奴の発した名は人間の声帯で容易に表現できるものでは無かった。二つの名はあくまで、そう聞こえたというだけの字面でしかない。
「無茶苦茶な名前だ。それで、お前らの目的は何だ?うらぶれたセールスガールの私に何の用がある」
【その言い方には語弊がある。汝に用があるのはヨグ=ソトースだけだ。私はメッセンジャーに過ぎない】
「嫌に周りくどいな。あの海葡萄が直接、言うのじゃ駄目なのか?」
【奴は時空の狭間にいる。此処に干渉するのはそう容易い事じゃない。単独で出来ることといえば、種子を植え付ける事だけ】
奴はそう発し、私の胸元へその虚空を覗かせた。
「種子、種だと?此処からあの、あの、海葡萄が生えてくるのか?」
脳裏に過ぎる惨憺たる情景。私の胸元からは数え難い程の肉泡が弾け、肌を食い破り、その身をまろび出す。やがて、私は玉虫色の肉塊に呑み込まれ、立場は逆転し、強大なる翡翠の一片と化すのである。
私の慟哭の傍、其奴は天を仰ぎ見るように音を発した。
【奴は憂いておるのだ。この次元に至る存在が未だ現れていないことに。あらゆる平行世界が此処の存在を認知する以前に滅び、途絶えてゆくのが。これを見たまえ】
其奴は何もない筈の空間から奇妙なチューブの数本を掴み出した。その内部では千色の光が揺蕩っている。
目を凝らしてみると、それには何かしらの情景が映し出されていることに気がつく。家電量販店の液晶パネルの如く、雑多な情景が捻くれながら流れているのである。
その映像は凡そまともでは無い。
一本には円錐状のウミユリのような生物が映り、もう一本には樽の如き物体に羽を生やしたような生物が文明を営んでいる。その他にも、見るだけで吐き気を催すような化け物や、そもそも生物すら存在せず虚空だけが広がるものもあった。
【彼らは、君たちが誕生する以前に地球の覇権を握っていた者達だ。君の握るその銃が豚の骨とそう変わらないと思い知らされる程に高度な文明を誇っていた】
「今は?」
【皆、滅んだ。イースの連中は時空を渡る術を身につけたが、彼らの行末も、
「それで?」
【奴が未だ観測していないのは人類のみだ。知的生命体としては劣等な種であるが故に、後回しにされていたようだな】
「いいか、椅子がどうのと百合がどうのと。そんなことは何でもいい。私が聞きたいのは、お前らが私に何をさせたがっているのかだ」
【順を追ったところで、理解し難い話か。ならば、先にお前の使命について話そう】
「使命だって?私は契約を結んだ覚えはない」
【まだ分かっていないのか、それとも本心に嘘をついているだけなのか。両方なのか。何れにせよ、汝に選択肢はない】
「選択?そんなものいつだってあるものさ」
私は銃口を自身の眉間に突きつけた。
悪夢から逃れる方法は一つだけ。物語から自ら外れてやる事だ。これで死ぬなら本望だ。まともな精神性を保てずにいる私は、本気でそう思い込んでいた。
引き金が引かれ、撃鉄が落ち、弾丸が私の脳天を貫いた。
痛みを感じる間もなく、私は死を迎え入れた。
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