3−2:黒い手と神の見えざる手
フランツ・ヨーゼフ通りのカフェに入ってきた青年、ガヴリロ・プリンツィプは焦燥の中にあった。
未だこの店の中にはその余波が広がりきっていないが、今より20分ほど前に、彼とその仲間たちは皇太子の暗殺に失敗していたのである。
大セルビア主義を掲げて組織化された
彼を含むメンバー7人はそれぞれ間隔をあけて街道に待機し、車列が目の前を通過する際に襲撃する算段となっていたのである。
だが、その試みは全て失意に沈んだ。
同志ムハメドが最初に車列と接触するが、彼は行動を起こさずに静観した。
恐らく、警備か何か不都合があったか、彼が怖気付いたか、何方かだ。
10時15分。中央警察署の前で待機していたネデリュコが皇太子夫妻の乗った車に爆弾を投げ付けたが、爆弾の異常によって本来の狙いとは違う、伯爵の乗る四台目の車を吹き飛ばすに終わる。
彼は服毒して川に飛び込んだが、その後の結果について今は知る由もない。彼の最後の思いについても計り知ることは出来ない。
爆発音を聞いた車列はスピードを上げて総督官邸に逃げ込み、プリンツィプは(恐らく他のメンバーも)混乱する大勢の群衆に阻まれ暗殺を決行できなかった。
プリンツィプは計画の続行が絶望的であると悟り、気持ちを抑え、失意を覆い隠す為にカフェを訪れた。群衆に押し流されるように動いた結果、偶然にもたどり着いた場所である。
彼は群衆の機微を見定める為にテラス席へと腰掛けた。
意外にも、人というのはどんな時でも腹は空くようで、彼は何か口にしようとメニューを開いた。
だが、運命の歯車と悪意ある介入者がそれを許さない。
「やあ、良いお日柄で。ガヴリロ・プリンツィプ殿」
向かいの席に座っていた忌まわしい黄色人種の女が席を立ち、話しかけて来た。その見た目に似つかわしくない流暢なセルビア語。見たことのないデザインのコート。不気味な黒革の旅行鞄。落書きのような笑みと燃え尽きた薪の色をした髪。
その隣には黄色人種の少年。変態が好みそうな華奢な見た目をしている。
「なんだ、テメェは。中国人か?」
「私は何人でもありませんよ。そんな事より、災難でしたね。何か大きな計画が上手くいかなかった。そんな顔をしています」
女は椅子を引き、彼の向かいに座った。少年もまた椅子を運び、女とプリンツィプの間に腰掛けた。
「いいか?俺は異人種が嫌いだ。オスマンやオーストリアの連中と同じくらいにな」
プリンツィプは動揺を押し隠すように女を睨みつける。
「まあまあ、そこは端に置いておきましょう。私は貴方の敵ではなく、貴方の敵の敵なのですから」
「何が言いたい?」
「つまりです。互いの目的が合致していて、私には貴方に協力する準備がある。そういうわけです」
女はその細い目を更に細めて微笑み、旅行鞄から奇妙な機械を取り出した。
それは箱型の代物で幾つかのダイアルとアンテナがついている。無線機のように見えたが、余りにもそれは小型であった。
「これはですね。私の会社が取り扱っている装置でして、無線の送信機と受信機が一体になったトランシーバーという商品です。これが何処に繋がっているか分かります?」
女はダイアルを回し、トランシーバーからノイズは偏向性を持ち始め、やがてモールス信号へと変わる。
「容疑者は服毒して川に飛び込んだ。毒は不良品の模様。引きずり出し逮捕。皇太子夫妻。総督官邸に避難中」
モールス信号はそう告げていた。
プリンツィプは目を見開き、その情報の真偽を測ろうと脳を蠢かせた。情報の内容は妥当であるが、状況は余りにも常軌を逸していた。
胡乱な黄色人種の奇妙な機械がもたらす、微かな希望を孕んだ情報。
正気なら唾棄すべきものであるが、彼の胸を支配する怒りと焦燥は正常な判断力を緩ませていた。それに、暗殺など望む時点で世間一般の正気とは彼がかけ離れているのは言うまでもないだろう。
女はダイアルを回し、音量を落とした。
「これは警察のモールス信号を盗聴しています。中継局に盗聴器を仕掛け、そのままこの機会に送信するように設定してあるわけです。まあ、技術どうこう抜きにして、これがあれば皇太子が通る場所に先回りして再び待ち伏せできるでしょう」
まるで全て知っていると言う風に、女は言った。
「お前は誰だ?何処まで知っている?英国か仏国の諜報員なのか?」
「ああ、申し遅れました。私、
無線機を振って見せる翡翠。
「話が見えない。お前が大セルビア主義に傾倒する同志とはとても思えない。狙いは何だ?」
「興味深い質問ですね。私は商人、狙いなんて一つだけ。利潤ですよ。貴方が引き金を引けば欧州における緊張は最高潮に達し、私の市場は一気に拡大するでしょう?」
至って真摯な声色で翡翠は語る。
「理屈は至って単純です。列強が戦争を危惧し、武器の生産集約を進めると、本国からの供給が品薄になった彼らの植民地の方で武器の需要が急速に増加するのです。そこに私のような個人事業者が介入する余地が生まれる…」
翡翠は肩を竦める。
「故に、貴方の所属する黒手組には多大な期待を抱きながら、幾らかの投資を行い、事件を傍観していたわけですが、どうやら上手くいっていない御様子。そこで、最後の一押しをしに話しかけたわけです」
「投資だと?我々の組織に面識があったと?」
「勿論、アピスこと大佐殿とも直接お会いしましたよ。今回の作戦に使われた武器はどれも不良品で上手くいかなかったようですが、私から直接、買ってくださればよかったのにと悔やむばかりです」
アピス。黒手組の首領であるセルビア王国の軍人ドラグーティン・ディミトリイェヴィチの暗号名。
「あまり大きな声でその名を呼ぶな。我らが帝国の軛から解放されるその日まで」
プリンツィプは拳銃へ手を伸ばしながら、睨みつけた。
「何にせよ、我々の組織に通じでいるのは間違いなさそうだ。だが、どうやって俺が此処に来ることが分かった。言っておくが、計画には入っていない行動だ」
「単なる偶然ですよ。事件から通り一本離れた此処で、事件の顛末を盗聴していたら、偶然貴方が此処に来た。それも向かいの席に。そうでしょう、伍六?」
翡翠は隣で紅茶を片手に辞書を開く少年へ話を振った。ゴムの様な皮のような不思議な装丁の辞書である。
少年は几帳面にその冊子を閉じ、少し間を置いて、硬さの残る凡庸なセルビア語で返答した。
「そうです。9時前に入店し、事の顛末を静聴していました」
そして、最後の方に流暢な中国語で何か付け足した。
『本当は長い昔話を聞かされていただけですけど』
翡翠はその言葉を覆い隠すように、話を切り替えた。
「まあ、そう言うわけです。例え、私の話が信用ならずとも、試してみるだけの価値はあるでしょう。チャブリノヴィッチの仇も取らなくては」
プリンツィプは翡翠を見据え、十数秒とも永遠とも取れる時間、熟考した。
大いなるセルビア。統合のみがセルビア人を救う。セルビア、マケドニア、コソボ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、ヴォイヴォディナとルーマニア、ブルガリアおよびハンガリー。
帝国の手によって弾き裂かれたものを正しき形に戻さねばならない。
例え、悪魔の手であろうと握るべきだ。それこそが使命である。
「代価は?」
目の前には落書きじみた微笑みが浮かんでいる。
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