3−3:ブローニングM1910

「代価は結構です」


 戯けたように、彼女はトランシーバーを机上におき、話を続けた。


「が、その懐にしまってある拳銃。ブローニングM1910を貸して頂きたい。貴方の同志が使った爆弾や自決用の毒薬の様に不良品だと私の協力した甲斐がありませんからね。少し確認させて欲しいのです」


 プリンツィプは少しだけ戸惑い、そして意を決したようにカフェの机上に、白昼の下に拳銃を置いた。


 誰もが我々のことを認識していない。誰もが喧騒と混乱の中にいる。暗殺、煽動、政治談義。カフェはその全身であるコーヒーハウスの時代から政治の引き金を握り続けていた。


 翡翠は拳銃を手に取り、慣れた手つきで動作を確認した。

 傷だらけのスライド、分厚く幅広のグリップ。無骨さと機能美を備えた拳銃。まるで、マーク・トウェインが陽光の元、オールド・ターキーを片手に描写した様な武器だった。

 

 スライドを引き、チャンバーから銃弾を廃莢する。真鍮が煌めき、彼女の生白い手の中へと消える。弾倉を引き抜き、顔を覗かせる弾丸を確認する。

 流れるような一連の動作は何万回と繰り返される時計の振り子の往復を思わせる。

 

 そして、彼女は振り子が戻るように全てを元通りにした。


 スライドが戻る硬質な音色はプリンツィプを現実に引き戻す。焦燥を隠しきれずに勢い込んで問いかけた。


「それで、奴は何処を通る?」


 翡翠はゆっくりとプリンツィプの瞳を見据える。


「此処のカフェの目前さ。皇太子夫妻は爆弾によって負傷した市民を見舞う為、病院へと向かう。本来であれば、ボスニア総督のポティオレクの命によって市街中心を外れたルートを通る筈だが、運転手のレオポルト・ローチャはルートの変更を知らされていない。道を間違えたこのカフェの前を通る」


 予言じみて翡翠はそう言った。


「どういうことだ?情報はそのトランシーバーとやらから流れてくるんじゃないのか?」


「まあまあ落ち着いて。結果は数分と経たずに分かること。その前にもう一つだけ聞いておきたいことがある。答えてくれたら、この拳銃を返そう」


 翡翠は慇懃にそう宣う。その態度はセールスマンから愉快犯の爆弾魔のものへと変貌している。


 プリンツィプは異常を察し、机の下へ視線を向けた。

 M1910の銃口はプリンツィプの方へと向けられている。机の下で、少年と大きな旅行鞄の影によって隠蔽される形で。


「裏切ったのか?」


「返答次第だ。君の行いが武器商人に利益をもたらすのは間違いない。株の大暴落を除いて」


「さっさと言え」


「君はこの弾丸の一発が何を齎すか知っているか?」


「セルビア統合の第一歩だ」


「欧州列強の思惑と君たちの様な民族主義、領土問題が渦巻くこの地で、列強の皇太子を撃ち殺す凶弾が本当にその一歩になると?冗談だろ?」


「物事は単純だ。セルビアの目的は一つ。帝国の軛から脱すること。それを達するのに帝国の首魁の後継を潰えさせるのは余りにも単純な帰結のはずだ」


 翡翠は大きく肩を竦めた。


「いや、違うね。何も解決できやしない。東欧の独立と繁栄を両立させた稀代の独裁者ですら潰えてしまう。この地は終わりのない死の円環の中にあるからだ。そして、君の撃つであろう弾丸が齎すのはその歴史の中でも、とびきり酷い一発になる」


 撃鉄の上がる音がした。


「君が皇太子を殺せば、間違いなくオーストリアは本気になる。セルビア王国は確実に崩壊し、ここ数十年間に構築された欧州の同盟網は寸分違わずその効力を発揮するだろう。どの国も各々の仮想敵国に対して綿密に過ぎる戦争計画を立てている。特に、プロイセンの鉄道計画は驚嘆の一言であるし、彼等はそれをやってのけるだろう。誰もその発動を止めることは出来ない。個人の努力が及ぶ次元ではないんだ。人類史初の世界大戦が巻き起こる。おおよそ1600万人が死ぬだろう。非戦闘員も含めて」


 プリンツィプは押し黙り、ただ翡翠を見据えた。


「まあ、何にせよこれは済んだ取引だ。君は私の質問に答える事になる。その行動でね」


 翡翠は机上にブローニングM1910を置いた。そして立ち上がり旅行鞄を手にする。少年もそれに倣い、席を立った。


「今から丁度、一分後。皇太子を乗せた車は此処の前を通り過ぎる。後は君に一任しよう」


 そう言い残し、二人は会計を済ませカフェを後にした。皇太子を迎える様に喧騒は更に強まりつつあった。

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