1−4:五十六式歩槍

 物心ついた時には、少年に家族はいなかった。


 そして、彼の過去について語る者は誰一人おらず、彼は自分の名すら知らない。

 この小さな寒村に於いては、名前がないという事こそが識別の指標足り得た。彼は名無しであり、常に代名詞によって表現される存在だったのである。

 村の小間使いの様に日々与えられる仕事をこなしながら、何とか生き抜いてきた。


 幾度、自身の存在について問い正し、自問自答しか分からない。

 

 彼は何者でも無かった。


 そして、それこそが彼にとって最も耐え難い事だった。彼は未だ生まれ落ちてさえいない。

 

 だからこそ、武器商人の姿を、その商品を、目にした時に胸を打たれたのだ。

 畏怖し、訝しむと共に、羨望と胸の高鳴りを覚えたのである。それは、無謀で何の合理性もない唯の衝動であり、最も純粋な感覚だ。


 彼女は全てを変えてくれる。束の間の生と死を彼に与えてくれる。


 そう、何の根拠も無い確信を得たのである。


 そして、確信は雷鳴によって裏切られた。いや、裏切られたというのは無粋だ。


 元から取引に値しない者にはどうして信頼関係が築けるだろうか。元から無かったものは崩し用がない。それは唯の捏造であり、言い掛かりに過ぎない。


 彼は死んだ。それこそが唯一の真実だ。


 死後の世界は揺れていた。


 まるで、馬車の上の様に、臀部が痛くなる程の揺れが小刻みに大振りに、寄せては返していた。


 少年は重い瞼を開いた。夕暮れの陽じみた橙色の光が差し込む。ぼやけた視界はやがて輪郭を持ち、その真相を露わにした。


 其処は馬車の荷台上だった。

 

 隣ではがしゃがしゃと積載された武器の数々が共鳴している。地平線の向こうでは陽が沈み掛け、御者台には翡翠色の胴衣がはためいている。


 不思議な感覚を覚える。常に感じてきた空腹感は消え去り、代わりに全身を包むような非現実的な浮遊感が纏わりついている。煙か陽炎にでもなってしまったような気分だ。


 少年は自分の額に手を触れた。


 跡形も無く吹き飛んでいる筈のそこには、大きな十字の傷があった。

 焼灼された後の様に肌は歪に波打っていた。それが奴隷の烙印であるか、何らかの儀式的な刻印であるか、若しくはその両方であるか、定かではない。


 分かるのは、先刻の出来事は夢などではないということだけだ。


「ああ、目を覚ましたね。お早う御座います、もう直ぐ夜ですが」


 翡翠は後ろを一瞥し、そう言った。

 

「死後の世界も荒野だなんて知りたくなかった」


 少年は額を抑えながら愚痴を溢した。


「残念だが、君は死んじゃいない。生まれ変わったのさ、生日快乐ハッピーバースデー、伍六君」


「僕はどうして未だ生きている?それに、その伍六というのはどういう意味だ?」


 翡翠は微笑む。

 


「質問は一つずつだ。まず、君がどうして生きているかという疑問だが、手品のタネはそう難しいものじゃない。鏃が入っていない唯の苔脅しだったのさ。空砲というやつだ」


 冗談めかして彼女はそう言うと、錆色の馬の背を鞭で撫でさすった。馬は嘶き、少しだけその足を速めた。


「次に伍六と言うのは、君の名前だ。生まれたからには名前が必要だろう?それとも別のがいいかな?君には名前なんて元々ないと把握しているが」


 少年は何とも言い難い複雑な表情を浮かべている。


「いや、そうじゃない。由来が少し気になるだけだ」


 翡翠はごそごそと荷台を弄り、カラシニコフを取り出した。


「コイツだ」


 露骨に訝しむように、少年は翡翠へ問い返した。


「貴方はその武器をエーケー四七と言っていた。なぜ、五六なんだ?」


 彼女は決まり悪そうに苦笑いを浮かべた。


「ああ、そのことなんだがね。君や村人たちに売ったのは厳密に言えば、AK47じゃない。俗に言うデッドコピー。それもコピー元は、五十六式歩槍というAKのライセンス生産品なんだ」


「つまりこれとは別に本物があって、此れは模造品だってことか?」


「そういうことだね。でも、不平に思う事はない。世界に対して本物が与えた影響より、遥かに偽物が与えた影響の方がずっと大きい。真に引き金を引かれたのはオリジナルではなく、模造品の方だ」


 煙に巻くように何の意味も無いフォローを嘯き、少年へ笑い掛けた。


「君は自身の事を何者でもないと卑下しているようだけど、この銃だって似たようなものだ。イミテーションの更なるコピー。それこそ何者でもない。だが、あの村で不可避の合戦で並外れた力を発揮する。かもしれない…」


 手にした五十六式歩槍を彼に差し出し、こう付け加えた。


「商人の弟子になるなら、商品について知らなけりゃならない。今のうちによく見ておくと良い。これ以外にも腐るほどに武器というのはありふれているからね」


 少年は痩せ細ったその腕で、自身の頭をぶち抜いた銃を抱えた。


「なあ、師匠」


「おお、早速かい。中々こそばゆい呼び方だ」


「アンタは本当は何なんだ?」


 翡翠は答えなかった。落書きのような表情を歪め、鞭を振るった。

 赤錆の馬はその速度をやにわに速め、やがてその輪郭を歪めていった。流れる景色より流麗な一筋の光。溶けるようにその体を広げ、御者台を覆うように撓んだ。

 馬はやがて機械へと姿を化し、馬車は堅牢な合金の車体へと変わった。


「武器商人だよ。場所も時も問わない少しばかり変わり種のね」


 その声は荒野の中へと消えていった。そして、馬車もまた忽然と姿を消す。この世界から、この次元から、塵一つ残さずに。

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