腹がないカブトムシ
夜、ベッドで横になり、イヤホンを着けて、音楽を流す。僕だけの世界に逃げる。他のなににも邪魔されない、夜の、小さな部屋の、ベッドの上の、僕だけの世界。目を瞑って、視覚からの情報を遮断する。今、僕はただ音楽だけを感じる。Aikoの「カブトムシ」に、耳を澄ませる。真っ直ぐすぎる歌声が、僕の心のどこかを突き刺す。それがどこかは分からないけれど、そこを刺されると、なんだか苦しくて、寂しくなる。心臓がなぜだか騒ぎ出す。聴いていて、すごく心地のいい歌声なのに、後ろめたい、のだろうか。よくわからない。「カブトムシ」を聴いて、そういえば、僕は、数日前、腹のないカブトムシを見たことを思い出した。実験室がある建物に向かっている途中、体育の授業が同じ女の子に、すれ違いざま声をかけられた。体育の授業のときとは、服装とか眼鏡が違ったから、一瞬誰かわからなかったけれど、声をかけられたとき、誰かわかった。
「ねぇ、これ見て」
そういって、女の子は、両手で包んでいたものを、僕に見せた。それは、腹のないカブトムシだった。腹が、ごっそり、無くなっているのだ。腹だけが、ないのだ。けれど、カブトムシは、動いていた。脚を懸命に動かしていた。腹がなく、薄くて、頼りない羽根が裏側から直接見える。腹がないのに、カブトムシは動くことをやめない。腹がないのに、カブトムシは、なぜこんなにも動き続けることができるのだろう。その光景は、とても、奇妙なものだった。
「このカブトムシ。生きていられるのか、生命科学の先生に聞こうと思ったけど、答えを聞くのが怖くて、やめちゃった」
女の子は、そう言った。このカブトムシは、どれくらい生きられるのだろうか。そもそも、生きているのだろうか。たしかに、動いてはいるけれど、腹をごっそりと失って、生きている、なんてことがありえるのだろうか。腹のないカブトムシは、相変わらず、脚を懸命に動かしている。
「ごめんね、食事前にこんなのみせちゃって」
「全然。大丈夫だよ」
「またね」
そう言って。女の子は去っていった。
僕は、あのカブトムシの姿が、脳裏に焼き付いて離れなかった。腹がなく、懸命に足を動かしている、あのカブトムシの姿が、ふと頭にうかび、言葉にしがたい感情が湧き、心臓の鼓動がはやくなる。あのカブトムシは生きているだろうか。まだ、見せてくれた女の子に、聞くことができていない。
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