言葉の魔術師
「翼をください」という作品は、僕が十代で書いた最後の小説であり、手ごたえがあった。感覚が研ぎ澄まされていて、言葉の選択、紡ぎ方が、自分が考えているもの以上に鋭くできていて、正直、僕が書いたけれど、僕が書いたとは不思議と思えない。あの作品を書いているときは一種のゾーンに入っていたというか、何かに取り憑かれていたようで、あのような作品が再び書けるのかどうか、僕は不安だ。
僕は、自分が思っていた以上に「言葉」や「文章」というものに愛着があるのだと、最近になってよく感じる。小説というのは「言葉」のみで構成される世界であって、その言葉の一つ一つに作者の意識がある。どのような言葉を選ぶのか、どのように言葉を紡ぐのか、そういったことに神経が張り巡らされている作品を読むのが好きだ。僕は近頃寺山修司の詩や名言集を読んでいるが、寺山修司は「言葉」というものを自在に操っていると、ひしひしと感じる。自分の肉体の一部のように、動かしたいように「言葉」を動かしている。名言集のような断片やアフォリズムを読むと、強くそう思う。ボールと友達、みたいなことでいうと、「言葉」と友達ということだ。寺山修司の言葉への愛着は、「ポケットに名言を」という名言集を寺山修司が編んでいることからも伺える。実際、「ポケットに名言を」は「言葉を友人に持とう」という章から始まる。また、言葉の操り方においては、太宰治も巧みだと感じる。寺山と太宰は、二人ともアフォリズムがきらりと光っているという共通点がある。太宰の小説には、思わず立ち止まってしまうようなひときわ輝く文章がよくある。「くるしさは、忍従の夜。あきらめの朝。この世とは、あきらめの努めか。わびしさの堪えか。」これは太宰の「I can speak」という作品の書き出しで、言葉の力強さというか、記憶にこびりつくような力を感じる。新潮文庫の「新樹の言葉」という短編集の解説には、太宰を「文章の魔術師」としている。太宰の巧みな言葉の操り方は、まさに「魔術師」だと僕は思う。
そして、「言葉」を自在に操る作家として、僕はナボコフを思い浮かべる。僕はナボコフの「ロリータ」、「青白い炎」、自伝の「記憶よ、語れ」を読んだのだが、その中で、ナボコフは言語というものを知り尽くしているなという印象を受けた。ナボコフは英語とロシア語で小説を書いていたのみならず、随所にフランス語が登場したりと、多くの言語に精通していた。多くの言語を知る中で、「言語」というものの本質と言うか、奥にあるなにかをつかんでいたように思える。
僕は文章を書く中で、どのように表現すればいいのだろうと悩むことがよくある。語彙力がないのだと感じる。自分が表現したいことを的確に表せるように、言葉や文章を自在に操れるようになりたいと、僕は思う。
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