僕と「歯車」
今日、七月二十四日は芥川龍之介の命日、河童忌ということで、僕は「歯車」を読み返した。「歯車」は僕が芥川の作品の中で最も好きな作品で、最も思い入れの深い作品である。それは、僕も「歯車」と同じ経験をしているからだ。
「歯車」で登場する、視界をふさぐ半透明の歯車は、閃輝暗点と呼ばれる症状だと言われている。あのような幻覚が見えた後、激しい頭痛がやってくる。僕の場合、それは歯車ではなく、半透明の三日月だった。輪郭をうねうねと動かし、ちかちかときらめく。それが見えた後、激しい頭痛と吐き気がやってくる。思い出すだけでも、気持ちが悪くなる。詳しい原因は分かっていないが、ストレスだと言われている。多くの人は思春期を過ぎると閃輝暗点の症状はおさまる、とも言われている、実際僕も、閃輝暗点があったのは中学生のころで、今はもうそれに襲われることはない。閃輝暗点があったころ、僕は精神的にかなり疲弊していた。ずっと、神経が削られていて、張り詰めていた。思春期ということもあり、心が尖りきっていて、あれほど辛かった時期はない。あの半透明な三日月が見えたときの絶望感は、言葉にしがたい。
僕が初めて「歯車」を読んだのは、高校三年生のときだった。模試の会場に向かう電車の中で読んだ。僕が過去に体験した閃輝暗点が登場する小説と知り、前々から気になっていた。読んでみると、歯車が出てくる中で、死へと着実に向かっている芥川の文章にみるみる惹きこまれた。それは、僕を閃輝暗点が見えていたころの絶望に引きずり込むようだった。そして、最後の一文は、僕を殴るようだった。
「だれか僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」
僕はこの一文を読んだ後、ひどく憂鬱になった。受験期で気分が沈んでいたこともあり、その一文は僕を殺してしまうようにも思えた。大人になっても、思春期のように神経を張り詰め、閃輝暗点に襲われ続けていた芥川にとって、長く生きることは難しかったと思う。僕が未だに、思春期のように神経を尖らせ、閃輝暗点が見えていたらと思うと、もう死ぬしかないように思える。そう思えるほど、閃輝暗点のあとにやってくる頭痛と吐き気は激しいもので、この文章を書いている中でも、頭が痛くなってくる。
僕は今日、「歯車」を読み返して、やはり、あのころに引きずり込まれ、ひどく陰鬱になった。
「静かですね、ここへ来ると。」
「それはまだ東京よりもね。」
「ここでもうるさいことはあるのですか?」
「だってここも世の中ですもの。」
というやりとりを読んだとき、僕はぞっとした。逃げ場がない。もう死ぬしかない。そう思えた。
僕は閃輝暗点を題材に「透明な三日月」という小説を書いたが、それも、読み返すと僕はひどく陰鬱になる。
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