濡羽色の稟告

示紫元陽

1.CONTRAST

1-1

 金曜日の放課後、そそくさと家に帰ろうとしていた私は昇降口でスマホを忘れたことに気がついた。鞄から一度抜き取った記憶があるから、おそらく教室の机にでも置きっぱなしにしているのだろう。仕方がないから、一度地面に置いたスニーカーを下駄箱に戻し、代わりに取り出した上履きをつっかけて教室に向かった。紺色のスカートが春風に揺れる。

 はなはだ歩くのが遅い。左脚に体重をかけようものなら捻挫した足首にじわじわと痛みが生じるから致し方ないのだが、だからといって、まぁぼちぼちだなどと楽観できるほど私の頭は緩くはない。一歩、また一歩と慎重に脚を運ぶ毎に、私の億劫は積み重なるばかりだった。

 とりわけ階段は救いようのない悪路に感じられた。今までどうして何とも思っていなかったのか、心底不思議に思う。昇るのが面倒だったことは間違いないのだが、そこまで気に留めたことはあまりなかった。

 それが今ではどうだろうか。脚の運びは妨げられるし、鞄は重いし、お腹はすくしと、もはや階段に限ったことではないような恨み言までつらつらと並べ立てられる。あぁ、またへりに引っかかったと、ただそれだけの事象に無性に腹が立つ。

 いらいらを募らせながらようよう教室に辿り着いた。これからスマホは腰にでも縛り付けておこうか。いや、いっそ手にでも括りつけてしまおうか。そんな馬鹿らしいことを考えながら扉に手を伸ばすと、未だ明かりが点いているのに私は気がついた。日直が消し忘れたのだろうか。まぁ私には関係ない。また先生の小言が増えるだけだ。代わりに髪が減っていくんじゃなかろうかと、また馬鹿げた思考を巡らせる。

 そういえば次は自分が日直だ。授業後の黒板消しが足に響かなければいいが。もうちょっと身長が欲しかったと何度思ったことか知れない。

 戸を引く間にこれだけの憂鬱が頭をよぎるのは、きっと疲れているからに違いない。なぜこう、疲れているときに限って下らない頭の回転だけは速いのか。私はさっさとスマホを回収して帰ることにしようと決め込んだ。

 がらがらと立て付けの悪い扉を開けると、静かな教室が西日に淡く照らされていた。後ろの黒板に描かれた下手な絵しりとりが妙な哀愁を漂わせている。黄色い光がゆらゆらと揺れているのがよりその感じを色濃くしていた。

 私の頭上を墨華すみかが羽ばたいた。真っ黒な身体に真っ黒な翼。大きさはひよどりくらい。墨のように黒いから墨華。「華」は語呂が良いから私が適当につけた。彼女は私以外の人間には見えない。その墨華が、窓の方へゆったりと飛んでいく。

 光の筋を辿るとカーテンが風になびいていた。どうやら窓も開いているらしい。今日の日直は本当に仕事をしない間抜けのようだと、他に何もなければ私は思ったことだろう。しかし、その時ばかりは嫌味は直ぐに霧消した。

 揺れたカーテンの少し前。窓辺の席で独り、本を読んでいる男子がいた。それ自体は特段風変わりな様子ではない。友達とお喋りをしたければすれば良い。ゲームをしたけりゃすれば良い。放課後だから部活に行きたきゃ行けば良い。本を読みたければ読めば良い。わざわざ教室に居残ってまで独りで読書に耽るのは些か物好きな気もするが、まぁそんな人もいていいだろう。ただ、それはさておき、その時私の眼に留まったのは机上に置かれた砂時計だった。墨華がその上に羽を休める。むろん、かの男子には見えていない。

 彼は冬木ふゆき慧糸さとしという。失礼ながら、私は物静かという印象しか持ち合わせていなかった。冬木は束の間突っ立っていた私が気になったのか一度振り返ったが、私が思わず目を逸らすと直ぐに読書に戻った。

 私は思い出したように脚を動かして席に向かった。ちょうど冬木の斜め前の席で、近づくついでに自然と彼の席に視線が吸い寄せられる。砂時計は掌に載るほどの大きさで、半分ほど下に落ちている。なおも落ち続ける白い砂と本のページが夕日の光を温かく吸い込んでいる。私は素直に綺麗だと思った。横を通るときに細い指がページを繰った。その横で墨華が欠伸あくびをした。

 案の定、可哀想なスマホは机の中に置き去りにされていた。椅子を引いて右手を突っ込み、お尻を突き出した私の姿は、後ろの冬木にはさぞ滑稽に見えているに違いない。そう思うと恥ずかしさを覚えて焦りが出た。脚の痛みを庇って慣れない姿勢で立っていたのも災いしたのだろう。手を引っ込めるときに机に腕をぶつけ、その拍子に左脚で踏ん張ったのがいけなかった。足首が激烈に痛んで一寸ちょっとよろめいた私は、肩にかけていた鞄を冬木の机にぶつけてしまった。 あ、と思った時には手遅れだった。ごめんと謝る暇さえなかった。

 振り返る間に、砂時計が倒れていく。こういう場面で時間が遅く感じるのは本当に皮肉だ。飛び立った墨華の足の下で、倒れかけの独楽のように一度くるりと回った砂時計は、勢い余って机の端から首を放り出した。陽光にガラスがちらりと光る。冬木の手が伸びたが、爪の先がちりっと当たったガラスはそれを嫌うかのように床に逃げていった。

 パリン、という音は恐ろしく軽やかだった。砂がはじけ飛んだ床は、白い花火が打ち上がって時が止まったようだ。音もなく降り立った墨華が黒いから、余計に花火の白さが際立っている。こんな静かで哀しい花火を、私は未だかつて見たことがない。

 あまりの衝撃に、私は直ぐには口がきけないでいた。

「あぁ、割れたか」

 立ち上がって覗き込んだ冬木が、気の抜けた一言を、かなり掠れた声で呟いた。それで私は我に返ったが、血の気が引いて喉がつっかえている。

「ごめん」

 必死に動かした私の口からはそれしか発せられなかった。

「本当にごめん」

「とりあえず掃除しないとな」

「わ、私、箒取ってくる」

「頼む」

 私は左脚をかばいながら掃除用具入れに向かった。焦りで心臓が早鐘を打っているのが分かる。気の昂ぶりのためだろうか、足の痛みはそれほどではなかったが、微かにずきりとするたびに気持ちが急いた。

 戻ると冬木は机をどかしてくれており、白い砂の花火が露わになっていた。よこせと云うように手を出してきたので箒を渡すと、冬木はせっせと砂とガラス片をかき集めた。私は頃合いを見てちりとりでそれらを掬った。からからと云う音が耳に響いて胸がぞわぞわした。

「雑巾で拭いた方がよさそうだな」

「私、取って……」

「いい、僕が行くから。それよりビニール袋持ってない?」

「たぶん鞄に……あった」

 内ポケットに、スーパーでもらったビニール袋が三角に折りたたまれて入っていた。

「じゃあガラスを紙に包んで、それに入れておいて」

 運動場で上がる部活動の音に紛れた冬木の掠れ声をなんとか聞き取る。分かったと私が言うが早いか、冬木は廊下の流し台に向かっていった。私は言いつけ通り、ガラス片たちを恭しくいらない紙で包んだ。ちなみに使ったのは物理のテストの問題用紙だ。別に怒られはしないだろう。

 濡れ雑巾で辺りを拭いた冬木は、ビニール袋に雑巾ごと突っ込むと、

じゃあ捨ててくるけどと、私の方を見てくる。お前も来るのか? と訊かれている気がしたので、

「事務所の向こうだっけ?」

「そのはず。違ったら、先生に訊く」

 階段を降りていく足取りが重い。教室を出てからほとんど何も喋らない。冬木は相当怒っているだろうと私は恐れた。隣で黙っていられるのが、どこか責め苦に感じられた。

 だが、冬木が歩調を合わせてくれるので、直ぐに怖さは拭われた。簡単な気遣いで、人はころっと気分が変わってしまうらしい。私だけではないと願いたい。

 収集場には雑多に投げ込まれたゴミたちがひしめいていた。雑多に置かれているため、どこが何のゴミであるのか判断が難しい。床にテープが貼られていて、その色で区別しているのだろうが、それにしても雑だ。あっちこっち見ていると、割れた蛍光灯やらガラスやらが集まっている場所があったので、冬木はそこにビニール袋を落とした。

「砂とか、雑巾も入ってるけど良いのかな」

「だめなら勝手に分別するだろ」

「それもそっか……」

 存外図太い性格をしているのだと思った。私はそこまで豪胆に振る舞える自信がない。

 捨てられた袋を見下ろすと、半透明のビニールの内側に、砂時計の欠片たちがとげとげしく鳴りを潜めている。それを再認すると、先ほど教室を染めていた茜色の景色をぶち壊してしまったような感覚を突きつけられた気がした。それこそ、ガラスが玄翁げんのうであっけなく砕かれるような感じ。悔やんでも取り返しはつかないが、せめて割れた砂時計については弁償せねばならないだろう。

「あの……」

 もう一度謝罪を述べようとして振り返ると、そこにもう冬木の姿はなかった。私のことなど気にもしていないと云うことだろうか。

 慌てて教室に戻れば、冬木は帰り支度を済ませた所だった。なんとか追いついてよかった。足首の痛みを庇っていたにしては頑張った方だ。

「砂時計、本当ごめん。弁償する」

「いいよ別に。気にしなくていい」

 そう言われても、はいそうですかと手放しで受け入れるわけにもいかない。だって、ガラスが割れたのを見た彼の眼は明らかに動揺を含んでいた。何より、墨華が砂時計に少し惹かれていた。思い入れが無いわけはないはずなのだ。私を気遣って平静を装っていたのだろうが、どうしても償いをしなければ気が収まらない。

 とはいえ、これ以上張り合ってもいたちごっこになるだけだ。さてどうしたものか。全く言葉が浮かんでこない。

「そう」

 言いあぐねた果てにとうとう呟いた私の一言を聞くと、冬木は窓を閉めて電気を消した。私も一緒に玄関に向かう。またしても沈黙が息苦しかった。

 私は何か言うべきかとそわそわした。でも、これ以上謝るのはさすがに鬱陶しいかもとか、そんな下らない思惟が声を出すのを邪魔してくる。そうこうしている内に階段の手前までくると、冬木は言った。

「忘れ物、机の中のままなんじゃない?」

「え、あ」

 私はいったい何をしに教室まで戻ってきたのか。この上ない馬鹿野郎だ。穴があったら入りたい。いっそのこと再起不能なくらい詰ってくれたほうがまだましかもしれない。

 冬木は、じゃあと言って、階段をすたすたと降りていく。どうやら体よく逃げられたらしい。

 私がスマホを回収して昇降口に辿り着いた時には、冬木の姿は今度こそどこにも見当たらなかった。墨華が羽ばたいたので仰ぎ見ると、藍色の空に白い月が笑っていた。

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