2-5

 十八時半に奈良駅の噴水前で待ち合せだった。現在時刻は十八時二十分。空の四割ほどが薄い雲に覆われており、黄昏の薄紫に染まっている。国道を東に登っていく車の列がヘッドライトを灯し始めていた。

 浴衣姿がちらほら見受けられる。やはり夏の催し事では着たいと思う人が多いのだろう。私はむろん私服だが、たまには華やかに着飾ってみても良いかもしれない。

 いや、やっぱりよそう。似合う似合わないにかかわらず、一時の享楽を味わってしまえば、却って日常が虚しくなるだけだ。ただでさえ面白みを見出せていないのに、その上寂寥感を塗りたくられれば、精神の安寧など保たれるわけがない。故に今日も私は、灰色の眼に映った景色をただ甘んじて享受するにとどめる。よその華を、安易に我が身に投影するなどしてはいけない。

 てろんと通知音が鳴ったので携帯を開くと、七夜先輩から五分ほど遅れる旨のメッセージが届いていた。分かりましたと返して顔を上げると、周囲はいっそう暗くなっている。数秒後に噴水が勢いを増して放物線を幾重にも描いた。

「お待たせ、七夜先輩はまだ?」

 冬木が片手を控えめに掲げて歩いてきた。吹き上がった水を眺めながら周囲に視線を巡らしている。

「五分遅れるって」

「じゃあ僕、ちょっと飲み物買ってくる」

「あ、私も行く」

 商店街横のコンビニエンスストアを指さす冬木に私も追随した。冬木がアイスコーヒーを、私はミルクティを買って店を出る。さて先ほどの場所に戻ろうかと思ったが、その矢先に墨華がすいーっと飛んでいったためそちらを見やると、七夜先輩が携帯片手におよおよと不安げな足取りをしていた。どうやら私たちが見当たらなくて焦っているらしい。

「先輩、ここです」

「あぁよかった」

 小走りで寄ってきた七夜先輩は心底安心した表情で、

「言い出しっぺなのに遅刻したから、怒って置いて行かれたんじゃないかと思ったよ」

「なんでですか。ちゃんと待ちますよ」

「だって既読無視だったし」

「え、私返信しましたけど……」

 言いながらチャット画面を確認すると、送信エラーになっていた。そりゃあ先輩が勘違いするのも無理はない。

「失礼しました」

「いいのいいの、元はと言えば私が遅くなったのが悪いんだし」

 私と七夜先輩がお互いにへこへこしていると、おそらく痺れを切らしたのであろう冬木がっさらりと言った。

「どうでも良いんで早く行きましょう」

「いや冬木くん、私が言うのもあれなんだけど、歯に衣着せるって知らないのかしら?」

「知らないわけがないでしょう」

「そうよね、知ってるわよね。その上で言ってるんだもんね。うん、早く行こう」

 束の間しょげたような表情をした七夜先輩は、しかし直ぐに気を取り直すように拳を握って歩き出した。喋っている内にもう夜の帳が降りてきている。水面に光の粒が転々と映っていた。

 猿沢の池の周りをぐるりと巡る。池の縁には等間隔にカップが並べられ、中で小さな蝋燭が揺らめいている。北にある土手にも点々とろうそくが灯っており、向こうに興福寺の塔がぼんやり照らされていた。

 半周したところで五十二段の階段を上った。中央と左右の端では、斜めに切り落とされた幾つもの竹の中で火が灯っている。もしやどこかに三寸の人がいるんじゃなかろうかと覗いてみたが、残念なことに、私の見た限りでは一つ残らず燃えていた。

 墨華が頬を撫でて上へ飛んだので見やると、冬木と七夜先輩が先に進んで私を呼んでいた。小走りで向かうと、遠くに春日大社の鳥居が見えた。その先に縁日の明かりが夜の底を煌々と照らしいている。手前の道路で信号待ちになった時にちょうど目の前を墨華が横切ったので、その影が黒々として吸い込まれるように目に映った。縁日の光が余計に明るく、温かく見え、肩で休む墨華が冷たく感じた。

 七夜先輩が何か食べようと言ったので、私たちは手分けして屋台に並ぶことにした。待ち合わせを決め、私はたこ焼きを買いに少し先に進んだ。歩く傍ら、墨華が雑踏の中を飛び回り、時々黒い頭に乗って頓狂な声を上げる。その度に私は自分がどんよりとした淵に沈んでいくような気がした。

 黒い流れが夜店の光をちらちらと遮り、手を伸ばしても届かないような気がしてくる。唐揚げ屋が見えて消えた。カステラの文字の前を頭が横切った。一瞬見えた動かないお面が笑っていた。焼きぞばの香りだけが鼻に届く。

 届く光だけはいやに眩しく、目を開けるのも億劫になってくる。それでもたこ焼き屋の明かりはなんとか捉えた。たこ焼き八個を持って土手に上がると、既に冬木たちはいか焼きとりんご飴を手に待っていた。

「ちょっとどこかで休みたいわね」

「少しならベンチがあるみたいですよ」

 冬木が指した先に、二人がけくらいのベンチが一つだけ空いていた。疲れているようだからと、遠慮する私を二人は無理に座らせた。横に七夜先輩が腰を下ろして、私の手にあるたこ焼きを一つ口まで運んだ。冬木は縁日の方を見ながらいか焼きを囓った。私は頬張ったたこ焼きで舌を火傷して笑われた。

 りんご飴をなめながら脇道を進むと池に出た。猿沢の池と同様、縁には点々とカップが並んでいる。ただ、池には船が浮いていた。船首に丸い提灯を吊り、橙の光を揺らしている。櫂がごとりごとりと水を掴む音と、何を言っているのか分からない声が黒い水面を漂っているようである。

 私は鞄からカメラを取り出して撮影した。最初は真っ暗になってしまったが、露出やらシャッターやらをいじってなんとかそれらしい写真を得た。

「あら、そんなもの持ってたの」

「中学の時に買って貰ったんです」

 先ほど撮った写真を画面に出すと七夜先輩が覗いてきて、

「良いじゃない。そうだ、ちょっと私たちも撮ってよ」

「え、僕もですか?」

「つべこべ言わずに、ほら」

 七夜先輩は冬木の腕を掴んで引き寄せ、ピースサインをした。冬木も渋々といった顔で応じた。私はまたシャッターを押した。

「どれどれ……おぉ、良いね。後で送ってくれる?」

「もちろん」

 心底嬉しそうな七夜先輩を見ると、カメラを持ってきておいて正解だったと思えた。

「久しぶりに人を撮りました。いつも風景ばかりなので」

「そうなの? せっかくだし、後で写真みせてくれないかしら」

 隠す理由もないので私は承諾した。

 池の周りから浮見堂の橋を横切り、灯籠が灯る階段を登った。少し歩くと一帯が開けた場所に辿り着き、幾多の光の点が敷き詰められていた。コンサートを催しているらしく、遠くからヴァイオリンの音が伸びて届いてきた。まるで異世界だった。灯籠が明るいため闇がいっそう黒い。墨華の棲む寝床であると言われれば大いに納得がいくかもしれなかった。

 一息吐こうと通行の邪魔にならない電灯の下に移動して、そこで私は保存してある写真を繰った。先日撮った紅葉の花の写真に始まり、過去を遡っていくと季節が流れが色濃い。

 祇園囃子の夜はコンチキチンの周りで蒸し暑い匂いがした。観音寺の風鈴は青空に妖精が歌うようだった。吉野の桜の時は足がくたびれた。天満宮の梅は時期が早くて五分咲きだったのと曇天のために少し味気ない。若草山の山焼きの日は花火が綺麗だったが寒かった。雪を纏った金閣はこの眼で初めて見たがやはり別格の美しさだった。紅葉に浸る談山神社はちょうど見頃で燃えるような木々が圧巻だった。何かを願った気がするがもう覚えていない。月を臨む朱雀門は、月見の日に無性に撮りたくなって自転車でわざわざ出かけた時の写真。――そうやって過去の視界が掌を流れていく。

 去年の燈花会の写真も残っていた。掃いて捨てるほどの枚数はないため消す必要がなかったらしい。自分の行動の少なさに落胆したが、記憶媒体の容量が多いだけだと思うことにした。。ただ燈花会の写真は存外多く、さらに繰っていくと久しくなかった人物の写真が現れた。

「綺麗な人ね。知り合い?」

「中学の先輩です」

 画面の中で、一人の女性が丸い竹かごを手で包むように立っていた。

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