2-4
深夕さんに誘われて燈花会を訪れたのは、夏祭りの手伝いをした二週間後だった。
待ち合わせの折、私は愛用していたコンパクトデジタルカメラを携え、猿沢池の横にあるカフェでコーヒーを飲んでいた。暇を持て余していたから昼間から周囲を散策していたのだが、これから夜分にかけて歩き回るのだから体力を残しておかないといけないと思い、脚を休ませるに至った次第だった。
写真を見返しながら時々ストローを啜っていると、だんだんと西日が朱くなってきて、向かいの旅館をじわじわと橙に染め始めていた。左を仰ぐと興福寺の塔が入道雲の端を突き刺している。冷房の効いた屋内だが、ふと、多湿の熱気を感じた気がして、氷を一つ口に含んだ。
「あ、深夕さん」
景気よく氷を噛んで視線を上げると、窓の向こうで深夕さんが紙の団扇を振っていた。髪がお団子になっていて首元が涼しげだった。襟付きの白いワンピースを細いベルトで引き締めている。ベージュのサンダルに収められた脚は少し小麦で、想像通りに華奢だった。深夕さんは「そっちいくね」と口パクで伝えて表に回った。
ちょうど隣が席を立ったので、深夕さんはショルダーバッグを置いてから注文に向かった。残された鞄は帆布のようだが、すでに柔らかくなっている。蓋を留める金具がきらりと光った。
しばらくして帰ってきた深夕さんの手にはカフェラテが握られていた。
「お待たせ」
「たまたま空いて良かったですね」
「日頃の行いが良いからね」
「自分で言わなきゃなお良いんですけどね」
「だって誰も言ってくれないじゃない。自分で肯定しておかないと」
他人の迷惑など気にもせず、灯火が薄闇に浮かぶまで談笑を続けた。専ら先日の夏祭りについてだったが、私は屋台側の役回りなんて初めてだったし、色鮮やかな記憶が話をするするとたぐり寄せてくれた。瀬川さんとの短い時間についても良い語り種だった。
「へぇ、なかなか格好いいわね」
「やめてください、今になってちょっと恥ずかしくなってきました。ただの綺麗事です」
「いいじゃない別に。自信を持ちたいって思うことの何が悪いのよ」
「悪くはないと思いますけど、でも……」
「でも、何?」
深夕さんはそこでカップを置いて、私の眼の奥を覗き込んできた。黒い瞳に私が映る。その中では私の灰色の眼も黒く塗りつぶされている。私は口をつぐんで自分のカップを覗き込んだ。今度はすべてが黒く塗りつぶされている。墨華のように。
何? と問われても、私にだって分からない。でも、綺麗事を述べた所で何も変わらない。今の自分が変わるとは思えない。
そりゃあ未来永劫、まったく今のままなんてことはあり得ないだろう。知識や経験が増えればそれ相応に生きていける身分に成るとは思う。今はまだ知らない人とも巡り会うだろう。いずれは恋をするかもしれない。あるいは、病気にかかって動けなくなる可能性だってある。ひょっとすると、誤って他人を死に至らしめてしまう恐れだって、否定はできない。
でも、そういうことじゃない。
結局、根幹の私は変わらないのではないかと思うのだ。怖がりで、自信がなくて、希望を抱けなくて、進歩に消極的で。そんな自分がこのまま続くのだろうと、疑うことすら億劫なのだ。 そもそも、変わるということに実感がない。どれだけ努力しようとも過去の私はそこにいて、どれだけ願おうとも鏡に映った私の眼は真に灰色だ。変化とは、なんだろうか。
「分かりません」
答えなど導けるわけもなく、私はただ呟いた。
「分からないかぁ。じゃあ私にも分からないなぁ」
それから深夕さんはカフェラテを持ち上げて、
「ずいぶん暗くなってきたわね。そろそろ見に行こうか」
ぐいっと最後の一滴まで喉に流し込む。私もつられて飲み干すと、深夕さんがカップを重ねて席を立った。
外では散りばめられた灯火が夜を照らし出していた。私はカメラを構えて、手始めに、池の傍に置かれたカップに近づけてシャッターを切った。
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