3-5
「来るときに精算、戸惑わなかった?」
「正直、びっくりしました。よく見る自動改札がないんですから」
「そうよねぇ。私も初めてのときはまさかと思ったわ」
最寄りの駅まで引き返し、プラットフォームで電車を待ちながら冬木と深夕さんが話していた。
相も変わらず降り注ぐ陽光に線路が明るく照らされてているせいで、屋根の影がいっそく濃く感じられた。無人の駅がよりわびしさを引き立たせているようである。つくつく法師が一匹だけ鳴いていた。
鉄の箱に揺られて十数分、下車した後も十数分ほど歩き、しめて三十分ほどで神社に到着した。南天した太陽の勢力が、辺りの楠やらで緩和されていた。一目散に鳥居の傍の木陰に入り汗を拭うと、懐かしさがこみ上げてきた。
「そういえば、祭りの時しか来たことなかったです」
「あの時はありがとう。助かったわ」
「思ったより狭いですね」
「祭りでは人でごった返していたからねぇ」
私と深夕さんがゆっくり歩を進める一方で、冬木は一足先に手水場で手を清めていた。斜めに切り落とされた竹の先からちょろちょろと水が流れている。黒い水面には波紋が幾重にも広がって、映った柄杓を揺らめかせていた。墨華は嘴を突っ込んで喉を濡らしていた。
手水場の横には桜があって、青い葉がついた枝垂れが影を落として地を掃いていた。私たちの影がその中を通り過ぎるのは、まるでカーテンをくぐっていくように見えた。視界が広いのも相まって、記憶の中の神社とは別世界のようだった。私がそう告げると、深夕さんは面白い場所があるのよと言い、鎮守の森の方を指さした。何かと尋ねてもはぐらかされたので、私と冬木は顔を見合わせた。
脇道から森に入るとたちまちほの暗くなり、いささか冷気に包まれた。すぐ傍を細い川が流れているのも一因かもしれない。森厳な中に散りばめられた木洩れ日がいっそう幻想的だったが、彼方で聞こえる踏切の音が全てを現実的に仕立てていた。
「あれよ」
盛り上がった木の根を跨ぎ越えたところで、深夕さんは視線を動かさずに言った。さした白い指がぼやけて見えた。
境内の片隅にあったのは古びた社だった。ただ古びているだけならば面白みはない。その社の異質は、大木の中にあったということである。それも横倒れになった幹が向こうから社を呑み込むように押し潰しているのである。
思わず私はカメラを構えていた。ピントを合わせて下ろしたシャッター音は小気味よく、眼前の社はいとも簡単に掌に収まった。もちろん墨華は映っていないが。
「異界に通じているらしいですよ」
不意に後ろから声がしたので私は身の毛のよだつ思いをした。だがすぐさま知った声であることを認めた。振り返れば、案の定瀬川さんだった。事前に深夕さんが連絡していたらしい。
彼女は二年前の夏祭りのときと同様に巫女姿で、手には箒が握られていた。髪には緋色の簪が光っていた。
「お久しぶりです、英波さん」
「久しぶり。今も巫女さんやってるのね」
「はい。高校に入ってからは定期的に。もういっぱしの巫女ですよ」
瀬川さんは片方の裾を広げると、朱い袴に光の筋が落ちて鮮やかに見えた。
「えぇと、そちらが深夕さんの言ってた……」
「冬木くんよ。露夏の彼氏くん」
深夕さんがさらっと言ってのけたので、冬木は大慌てで、
「嘘を言わないでください、嘘を」
「冗談よ。ねぇ英波さん」
「深夕さんの冗談は意地が悪いです」
私が眉根を曲げて答えると、深夕さんは鈴が鳴るように笑った。それから、冬木に瀬川さんを簡単に紹介した。
「ところで瀬川さん、異界って?」
「あぁはいそうですね。なんでも地底に通じていているらしいですよ。京都の愛宕にも似たような場所があるって……」
瀬川さんは真面目な顔で語ったが、最後に「お露が夢で見たそうです」と言っておどけたように肩をすくめた。どこからどこまでが出任せなのか分かったものではない。私が問い詰めても暖簾に腕押しだった。瀬川さんはさらに舌先を出したのでいっそう胡散臭い。
深夕さんはまた横で笑って言った。
「じゃあ、ここに入れば京都に行けるのかしら?」
「電車で行った方がよっぽど速いんじゃないですかね」
「どうかしら」
深夕さんは「それじゃあそろそろ」と言って本殿に足を向けた。瀬川さんは私と冬木に軽く道案内をしてくれた。その間に砂時計の話が出て、瀬川さんが見たいと言ったので、私はスマートフォンの画面を差し出した。金魚が沈んでいくところが綺麗だったので、一度教室で撮らせてもらったのだった。
瀬川さんは興味深げに眺めてから、今度は自分の携帯を取り出して写真を冬木に見せた。龍の絵馬だった。
「見覚えはありますか?」
冬木はいいえとかぶりを振った。
「お露の残した絵馬です」
瀬川さんが画面をスワイプすると裏面が映った写真に変わった。二年前に見たのと同じ文言が綴られている。冬木は釘付けになって、
「満点の星空、ですか」と呟いた。
「先輩なんでタメでいいですよ」と瀬川さんは笑って、
「ここの神社で毎年書いていたんですよ。それでこの年はこれ」
瀬川さんは青い空を仰いだ。
「ここら辺でもそれなりに星は見えますけど、お露は欲張りなので。元旦に書くんだからもっと抱負みたいなものを書けば良いのに、いつも欲望を書くんですよ。神様をサンタクロースか何かと勘違いしてたんですかね」
「それで、星空は観れたの?」
「さぁ、それは知らないです。でも、その写真を見て、ある意味叶ったのかなぁと思ってみたりはしました」
玉砂利を踏む音が少しの間耳に響いた。それから瀬川さんは私たちの方を見て、
「まぁ私がそれで納得したいだけですけどね。って、冬木さん?」
慌てて瀬川さんが冬木を覗き込んでいた。見ると、頬に一条の光が反射していた。
「え? あれ?」
冬木は下瞼を拭って涙に気づき「おかしいな」と動揺していた。
拭った環指の先が濡れたのが妙に艶やかだった。何かに優しく触れるとき、他の指ではなく環指を使うのは冬木の癖らしかった。
私がそれを初めて目にしたのは、冬木が文庫を読んでいたときである。彼は読書の最中、栞を読んでいないページに挟んでいるのだが、時折手持ち無沙汰のようにはみ出したその角を指の腹で撫でるのだ。そして撫でるのがいちいち薬指なので、大したことではないが珍しく感じて記憶に残ってしまった。私も一度まねしてみたが、どうにも動かしづらくてすぐにやめてしまった。それから今に至るまで、他に薬指で栞を撫でる人物とはついぞ邂逅したことがない。
それはさておき、瀬川さんは冬木の突然の流涙に慌てふためいていた。幾分大人びたように感じたが、やはり根は私と同じ一生徒に過ぎないようだ。巫女姿で軽く腰を曲げておろおろする仕種は小動物のようで可愛らしくさえあった。
「ごめんなさい。私、何か無神経なことを……」
「いや大丈夫」と冬木は手で制した。
「結局何もできなかったから、自分が無力だって思い知らされた。今でもたまに夢で見るんだけれど、暗い中で歩いていると炎が容赦なく目の前を呑み込んで押し返されるんだ。そういう日はいつも、訳も分からないまま目が覚めて、全身が汗でぐっしょりになっている」
冬木は手を握ったり開いたりした。手はからからに乾いているが、汗を握る感触を思い出しているのだろう。
「でも、星空っていうのは悪くないかもね。これだけも救えたのは良かったって思えた。ありがとう」
「い、いえ。そんな。綺麗なものだったので言ったまでで」
「ガラスだし尚更だよね。まぁ、どんなに綺麗でも、今でも赤は苦手なんだけれど」
冬木の視線の先で、蒼を湛えた楓が本殿の軒先を舐めるように揺れていた。反対側では口を閉じた狛犬の上を覆って、賽銭箱の近くまで影が伸びている。深夕さんの影法師がその中で戯れるように階段を登っていた。秋ならば紅葉が燃えるようだろうと思った。殊に夕方ならば、太陽の中で影が踊っている風に見えるかもしれない。
そんな朱色の背景に浮かぶ黒い人形の光景を想像した私だが、彼らの会話をやけに冷静に観察している自分に気がついて怖くなった。手元の画面に映る、青い粒に沈んでいく金魚が星屑の海を泳ぐようで涼しげだなぁなどと呑気に考える自分が恐ろしかった。さっきから肩に墨華が留まっているが、その黒々とした羽が自分の心を表しているようだ。昼日中の下に一点の闇があって、胸がずしりと後ろに引っ張られている気がした。
おそらく無神経なのは私の方だろう。「無神経なことを」などとすんなり気が遣えるだけ、瀬川さんは十分に感じられる。
もちろん私とて、言葉面は理解できる。しかしその奥に包まれた感情だとか、隠された意図だとか、暗に示されたニュアンスだとかが、当てもなく霧中を探すようでいつも困惑する。共感というものが真に理解できない。
ただ一方で、悪意とか敵意といった攻撃的な精神には、たとえ思い過ごしであっても、過度に鋭敏だったと思う。これが本当に腹立たしいのだが、例えば少しでも奇妙な視線を向けられたりすると、たちまち蛇に睨まれた蛙のごとくすくみ上がって頭の中が真っ白になる。その分余計に墨華が辺りの色彩を吸い取っていくようで、時には吐き気を覚えることもあった。もちろん実際に吐くことはないのだが。
冬木と瀬川さんの歩調に合わせ、その先を悠々と歩く深夕さんを眺める。自分だけが無彩色の世界にいて、窓の向こうで美麗なグラフィックが忙しなく切り替わっていくようだ。まるで映画でも見ている気分になった。拝殿の前で深夕さんが「おーい」と振り返って手を振っている様は、それこそ虚構じみていた。
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