1-7
最初に墨華が強く魅せられたのは、私が中学二年生の時だ。
当時、私は合唱部に所属していた。歌うのが好きだったからだが、きっかけは、家で気分良く歌っていたのを褒められたとか、そんな程度だったと思う。今にして思えば、稚拙な自負心で虚栄を張っていた滑稽な姿だったかもしれない。
部員は確か十名程度の小さな部活動だった。なんとか混声三部をできるかといった具合で、私は主としてソプラノだったのだが、人手が足りないからアルトにかり出されることもしばしばだった。そんな風にして
それでも皆は、放課後の一時をお互いの音符で彩ることに安寧を抱いていたのだと思う。夏休み中の活動で、休憩中にアイスを食べながら、誰かが「合わせると一体感があって気持ちが良い」といったことが忘れられない。少なくとも、私に「一体感」というものは見いだせなかった。
ふざけた連中はいなかったが、とりわけ部長の
但し、その姿は孤高だった。
一度、特別理由もなかったが、私はいつもより早く部活に顔を出したことがある。既に部長は訪れていて、一人で窓辺で楽譜に視線を下ろしていた。個人練習で一息吐いていた所だったようだ。ちゃちな椅子に腰を下ろした彼女は、西日に髪を黒く艶めかせていたのだが、それが却って彼女の瞳に落ちた影を際立たせていた。
墨華が魅せられたのはその時だ。漆黒の翼を窓に反射させながら舞うと、深夕先輩の腕に留まった。それから己の羽を引き抜いて、彼女の掌中に収まっていた鉛筆に植え付けたのだ。たちまち羽は光の屑となって、それから、りんっと緩やかに爆ぜた。
なぜ墨華がそんな奇妙な挙動をしたのか、当時の私には全く見当がつかなかった。マーキングの一種か、あるいはおまじないの類いか。いずれにせよ、儚い美しさを纏った光景から目を離せなくなった。
「
水筒を拾った際に私を認めた部長は、椅子の上で膝をこちらに向けた。肩下にまで掛かる髪が斜陽に波打つ。一口喉を潤してから水筒を下ろすと、濡れた薄桃色の唇が彼女に柔和を与えた。立ち上がった時、胸元に結ばれた藍色のリボンが陽に照らされて鮮やかだった。
きゅっと蓋を閉めた音が私の胸を張り詰めさせた。
「いえ、何もすることがなかっただけです」
「じゃあ私と一緒ね」
「練習してたんじゃないんですか?」
「他にすることがなかっただけよ。だから一緒」
そんなことはないですよと言いかけたが、墨華がアーと啼いたので口をつぐんだ。なぜだが、それは言うべきではない台詞に思われたから。もしも言ってしまえば、これまで幾度も苦汁を嘗めさせられてきた嘘くさい関係性に、自ら足を踏み入れてしまう気がした。
だから代わりの言葉を選んだ。
「じゃあ、一緒に練習しましょうか? 暇人同士」
深夕先輩は一瞬面食らったような表情をしたが、取り乱すことなく、そうしようかと言って、うんと伸びをした。
それから、深夕先輩とは時折話をするようになった。と言っても、部活の開始前に、今日は授業がどうだったとか取り留めもない会話をするに過ぎなかったが。部活動では敏活な振る舞いだからか、穏やかな彼女との時間が少し心地よかった。そのうち私は彼女を「深夕さん」と呼ぶようになった。
しかし、コンクールの直前、部長は体調を崩した。その頃練習に明け暮れていたから、心労が溜まっていたせいだろうと皆は思った。実際そうだろうとは私も思う。だがそれはそうとして、コンクールまでに復帰することが叶わず、引退を迎えることになってしまった。送別会での無念そうな顔に、同級生は慰めの言葉を口々にした。部長は空虚な笑みで、ありがとう、と言っていた。
私は声を掛けられなかった。何を言ったところで傷口に塩を塗るだけになってしまうのではないかと怖かったから。結局、先輩たちの慰め合いを冷ややかに見ていることしかできなかった私は、自分をこの上なく蔑む羽目になった。
深夕さんが去った後も私は早めに部活に顔を出すようにしていた。コンクールに特別思い入れがあったわけでもないし、感傷に浸っていたのでもない。ましてや個人練習をするためでもなかったが、癖というものだろうか、放課後になった途端に足が勝手に向くのだった。
そんな日々が続いたある日、練習は休みだったが、相変わらず練習場所で独り怠けていた私の元に深夕さんがやって来た。
「お疲れ様、不真面目さん」
「今日は休みですけど、まぁどうせ私は不真面目な不良生徒ですよぉ」
大げさに不貞腐れてやると、深夕さんは知ってる知ってる、と言って相好を崩した。
「ところで、今日は暇?」
「見ての通りです」
「じゃあ、久しぶりに一寸喋らない? 暇人同士」
先輩が悪戯っぽく笑みを浮かべたので、私もできる限り倣ってみた。
「もちろん、喜んで」
その後、私は日ならずして部活を辞めた。
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