4-6

 ――用意している側が穏やかなのに、どうして観客はおののくことができるだろうか。

 これが、舞台で使う絵を先日見たときに私が抱いた違和感だった。

 冬木は私のこの思いを、伏せていた感覚を、わざわざ設計図を書いたクラスメイトに告げてしまっていたらしい。それもハーゲンダッツを買いに行っていたときに、ちょうど制作者に遭遇したとかで。無論、遠回しに仄めかしただけだろうが、余計なことを、と私は心中で呟いた。おくびには出さなかったが、冬木にはばれていたに違いない。

「でも、納得はしていたよ」

「知らない。たまたまだよ。それに、私が言ってたら、違ったかもしれない」

「それはちょっと、屈折しすぎじゃないかなぁ」

 白本さんの意見だとは言わなかったけど、と、冬木は渡り廊下を進みながら苦い顔をした。

「それでも、その言葉は白本さんのものなんだから」

「じゃあ今すぐ冬木に譲渡するわ」

「いらないなぁ」

 教室に戻ると、果たして描き直された絵が黒板の上から吊り下げられていた。絵はまだ鉛筆の下書きだけで、アタリが付けられているだけの部分も多い。視野が広いのと線が薄いのとで、一見では以前の絵との違いがまぁ判然としない

「完成予定はこれらしい」

 冬木が一枚の紙を差し出してきた。訊くと、背景担当者の机から勝手に引っ張り出してきたらしい。彼は他にも何枚かプリントが仕舞われていると見受けられるプラスチックのケースを掲げていた。一番上に覗いている絵はおそらくラフなのだろう、黒鉛が二重三重と乱雑に形を成している。きっと別の紙も似たようなもので、その結果が、今しがた冬木が引き抜いたものであると私は受け取った。

 視線を落として、私はぞくりとした。一瞬だが背筋に嫌な震えが走ったように感じた。

 ただし、特段恐ろしいとか、危険を感じるとか、そういうわけではない。むしろ恐怖でいうならば然程さほどである。しかしそれでも私はぞくりとさせられたのである。

 端的な感覚を述べるならば、気味が悪いというのが最適な表現だと思う。

 鉄骨。割れた硝子。あと、机と椅子。これらは以前と変わらず、大枠はそのままだった。それが色鉛筆で塗られている。それがやけに多彩である。

 鉄の鈍色には所々に赤茶けた錆び。影はいっそう暗いねずだが、深く沈むような天鵞絨ビロード色が重ねられてる。

 机は教室と同じ天板が木目の、変哲でないもの。只、それが幾つも乱雑に、不規則に並び重ねられている様が異様だ。フレームは貧弱そうなグレー。足先の滑り止めが割れたりしているのが退廃を地味に演出していて細かい。

 割れた硝子は方々に散らばっている。窓辺に一際大きな破片がいくつが纏まっているのがやけにリアルである。だが一方で、窓外から射した陽光に四角く照らされた色は、赤や青や緑に淡く仄かに輝いている。そこだけが輝いている。これもまた異様である。

 そして。

 最も異様さを際立たせていたのが、硝子の上に凜とたたずむ一羽の鶴だった。確か、脚本では主人公が遭遇する化物だ。シルエットのみだが、姿形だけで鶴のそれと分かる。細い足に乗るふっくらとした体躯、そこからするりと伸びる細い首、球のような頭から二つに分かれた細長い三角の嘴。まるで鳴いているかのようである。

「どう?」

 冬木は私に尋ねた。

「なんだか、気持ち悪い。良い意味で」

「満足した?」

「そうね。十分すぎるくらい。ただ……」

 私が言い淀んでいると、冬木は次の言葉を発するのに少し迷ったようだった。しかし程なくして口を開いた。

「これを描いた彼だけど、納得するだけじゃなくて、感謝してたよ」

「感謝ねぇ」

 そんな大したことを言った覚えはないし、伝えたのは冬木だし、実際に悩んだ末に描いたのはその彼だ。それで感謝されるものだろうか。嫌な気はしないが、少し後味は悪い気がする。

 それに。

 絵の出来映えはともかく、私は少し、淋しさを感じた。

 と、そう喉の奥でつっかえた途端、墨華が飛んだ。それから、影の鶴が彳む廃墟の絵を覗き込むように机に降り立った。首をあちらこちらと傾げる。アーと啼いた。だがそれだけだった。

 横で私の様子を覗っていた冬木が言う。

「白本さんの烏は、何もしなかった?」

「そうだけど、どうして」

「一寸待って。今呼んでるから」

「誰を」

 と、私が言うや否や冬木が私の後方に視線を投げた。振り返ると、一人の男子がこちらに歩を進めている。何も言わずに傍を過ぎ、机に置かれた絵に手を伸ばす。どうやらこれを描いた張本人のようだった。名前はこの際関係ないから伏せておく。

 そして。

 彼の手が絵に触れた途端、毛繕いをしていた墨華が自分の羽を一本抜き、絵が収納されていたケースの把手の付け根あたりに植え付けた。ぴんと刺さった羽はその根元から、星屑のような光の粒に霧散しながらきらきらと世界に溶けていった。

 彼は、淋しいような、悔しいような、そんな表情をしていた。少なくとも私には、そう見えた。


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濡羽色の稟告 示紫元陽 @Shallea

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