4-5

 翌日の授業はあまり集中できなかった。もとより真面目に享受している人間ではなかったかもしれないが、それを差し引いても怠惰極まりない有様だった。

 というのも、墨華の意味を、ずっと考えていたからである。

 ヒントは七夜先輩がたくさんくれた。いやヒントと言うのは烏滸がましい、もはやほぼ答えと言っても良いのだろう。それらが正しいのか、妥当なのかは断言できないが、やはりあながち的外れでない気がするのは、私自身が既に勘づいているからかもしれない。

 今までは目を背けていた。そうでなければ目を伏せていた。灰色の眼を理由に、弁明に、釈明にしてきた。だがそんな言い訳が通用しないほどに、私は話しすぎたのだ。

 そう、話しすぎた。もう、逃げるには手遅れだ。

「予防線なのよ。哀しみに対する防波堤みたいな感じかしら」

 昨日の下校時に、自転車を押す私の横で七夜先輩はそう言った。

 墨華について告白し、なんだか深遠に聞こえる話を交わしたあの後、二人して昇降口まで降りると、冬木がハーゲンダッツを片手に仏頂面を浮かべていた。十分ほど待たせたらしい。こういうときは待っていない風を装うのが一般だと思うが、その辺りは容赦がないようである。兎も角、こちらは待たせた身であるので陳謝するほかなかったのだが。

 アイスを受け取った冬木はあっさりと帰路についた。七夜先輩が口を開いたのは、そうして彼と別れて、私が七夜先輩を駅まで送り届ける最中だった。

 予防線、と言った。悲しみに対する防波堤。

 それはつまり、嫌な感情に囚われないように私自身が対処しているということだろう。それが墨華の存在理由。七夜先輩はそう言いたいらしい。

 辻褄は合うのかもしれない。多少なりとも納得はいく。折り合いを付けるための、心の作用。しっくりはくる。

 しかし、私にそんな小賢しいことができるのだろうか。

 それに――それだけでは、何かが足りない気がする。

「無意識だろうね。苦しい思い出を器にして、辛さの捌け口で蓋をして、閉じ込めるのよ。全部。そうしてしまえば、冷静になれるから」

 たぶんだけれどね、と七夜先輩ははにかむようにこめかみを掻いた。気障きざな科白だとでも思ったのかもしれない。

「じゃあ私は――ん」

 逃げているってことですか、と続けようとして、七夜先輩に手で制された。何故だろうか、この人の手には逆らえない。

 だから、と代わりに彼女は言う。

「貴方は優しすぎるのよ」

 駅に到着し、七夜先輩とはそこで別れた。

 それから一日が経過したが、この言葉が昨晩から脳裡を離れない。延々と私の頭を巡る。だというのにこれといった確信が得られないのだから気分が優れない。

 感情を背負わせているとも、先輩は言った。

 つまりは都合の良いゴミ捨て場ということか。墨華なんて洒落た名前を付けておいて、やっていることは下衆にも程があるではないか。

「私って、愚かだな」

 放課後、文化祭の準備で教室が使えないため移動してきた図書室で、私は独りごちた。

「なんで」

 隣の椅子の後ろから、唐突に冬木が後ろから声を掛けてきた。日に日に遠慮という概念がなくなっている気がするのは私だけだろうか。

「七夜先輩は、私が墨華に、感情を背負わせているって。それって、要は掃きだめにしてるってことじゃない。だから」

「喜怒哀楽をってこと?」

 冬木はがらりと椅子を引き、背を凭れさせた。

「さぁ、その辺は結局、私次第だから。でもたぶん、ネガティヴな方面だろうとは思う」

 七夜先輩に墨華は反応していない。それを聞いた彼女は、それは良かった、と言った。七夜先輩に対して負の感情は抱いていないし、感じ取っていないのだと思う。

 私が思考している一方で、冬木は何か腑に落ちないような顔をしていた。まぁ、冷静になってみれば非現実めいた話ではある。

 しかし、間もなく冬木は改まって、そもそもなんだけどさ、と尋ねてきた。

「その烏の行動って、白本さんが何か思うとか以前に起こるんだよね、話を聴く限り。じゃあ、白本さん自身の感情を背負ってるっていうのは、なんというか……」

「なんというか?」

「時系列が変じゃない?」

「……それは」

 尤もだ。

 しかし、それならばどう説明ればよいのか。七夜先輩の推測は、間違っていた?

 いや、そういえば、七夜先輩は変な言い方をした。私の感情ではなく、感情、と。

 哀しいとか、悔しいとか、そういった感情に反応しているのだろうことは経験から把握できる。しかし、それは私自身の心ではないと云うことか?

 つまりは――他人の感情。

 それは馬鹿馬鹿しいにも程がある。超能力でもあるまいし。荒唐無稽で、滑稽で、笑止千万である。

 分かった気になっている、図々しい人間。

 でも――本来見えないはずの誰かしらの情動に反応しているのは、慥かなんだろう。

「じゃあ、なんで」

 そう疑問を呈してみると、冬木はため息を吐いた。

「何よ」

「あぁいや、七夜先輩は相変わらず意地悪だなぁと思って」

「まぁそれは同感だけど」

 この様子だと、冬木も七夜先輩から話を聴いているのだろう。そう考えると彼もそうとうたちが悪いと思うが。

 私が視線で説明を求めると、冬木は躊躇いがちに口を開いた。

「うーん、ここまで来ると、僕としても何と言うべきか……。そうだな、とりあえず、白本さんが臆病だからじゃないかなぁ」

 とんでもないことを言われた。

「ちょ――ん」

 冬木の掌が、文句の一つでも言ってやろうかと振り返って開けた私の口を遮った。この手で唇を閉じるのは何度目だろうか。いい加減にしてくれ。そのうち足も止められて身動きが取れなくなるのではなかろうか。

 冬木は続けた。

「敏感ってことだよ。臆病だから、他人の機微に反応しやすい。よく見ている。いやこの場合、見てしまうというのが正しいのかもしれないけど」

 なんだか酷い言われようだなと思いながら聴いていたが、敏感と云う言葉に、私は納得せざるを得なかった。意図して了承せずに過ごしてきたこれまでの自分が脳裡をよぎる。

 でも。それを安易に受け入れてしまうと、目を逸らしてきた世界の映像が、実感を伴って思い起こされてしまいそうになる。今まで眼に映ってきた彼ら彼女らの顔や気配が、胸に流れ込んでくる。

 嫌だ。思い出したくない。みんな、そんな顔をしないでほしい。

 答えずにいると、冬木は猶も続けた。

「深夕さんから聴いた。白本さんが最初に烏の、墨華の行動を見たとき、深夕さんは――」

「だめ」

 それ以上はだめだ。今まで閉じていた蓋が開いて、要らないものが溢れてきてしまう。押し込んで煮詰めて固めてきた物たちが動き出してしまう。そうなってしまえば私の力では抑えることはできない。溜め込んできたツケではあるのだが。

 私は目を伏せた。冬木は口を噤んでいる。

 それからしばし、しじまが訪れた。

 私が話を遮ったため、今の静寂は私の責任だ。しかし紡ぐ言葉が見つからない。流れ出してくる記憶を堰き止めるのに苦心するがゆえに、頭の容量はいっぱいである。

 私は居たたまれなくなって心の逃げ場を求めた。すると机に置いていた両手の間に墨華が現れた。彼女は首を傾げて、黒曜石のような眸子ぼうしを私に向けてくる。思わず覗き返すと、真っ暗な中に私が映って、同時に私の過去をも覗き見てしまった。

 墨華の中には、私の凡てが詰まっているらしい。雨後の濁流のように、一息に私を飲み込むように、過去に見た墨華との景色が降りかかってきた。びちゃりびちゃりと液体が窓に打ち付けられるような紋が、次々に現れては溶けていく。だが、その色彩は淡く透明で、滲んでいるがどこか温かくて。

 気づけば頬が濡れていた。つつつと瞼から鼻の横を抜けて口元を流れる。それから一瞬、おとがいの先で留まってふるふると揺れた。揺れる間にも、頬を伝った滴の跡をするすると別の滴が流れる。

 そうして、湛え切れなくなった涙はやがてぽとりと落ちた。落ちた先は、墨華の体躯であった。

 途端のことだ。墨華の夜の帳のような翼が、どろりと波を打った。波紋が嘴の先、尻尾の端にまで広がる。すると今度は、波が揺らめくのに伴って墨華の身体が溶けるように崩れ始めた。しかし身体の形は保たれていて、まるで塗られたメッキ溶け落ちていくようだった。

 崩れ落ちたメッキはたちどころに固まって机を染めていく。その際に大半が逆さになっていくのだが、驚いたことに裏側は眩しいほどに白かった。恐ろしいほどに純白だった。

 そうして。

 メッキが剥がれた内側は、やはり黒だった。しかし以前の墨華の色とは異なっている。

 それまでは吸い込まれるような、一度足を踏み入れると抜け出せないような闇であった。私はそれに魅入られていたのだが、メッキを脱いだ彼女の身体は、どこか柔らかな印象を抱く黒だった。何故だろうかと目を凝らしてみると、瑞々しいその羽は刻一刻と千変万化の色を含んでいた。それはこの世の全ての色を混ぜ合わせて丁寧に塗り込んだようで、すべてが潤いに沈み込んでいる。ちょうど、水浴びをした鴉のように。

 墨華が翼を羽ばたかせた。時が止まったような白の上で鮮やかな黒が踊る。彼女はどこか伸び伸びとしているように思われた。

 そのころには涙は止んでいた。私は手背で頬を拭って、腕を組んで黙想していた冬木に顔を向けた。

「ありがとう。もう大丈夫」

 冬木は私に近い方の眉だけを器用に上げて、そうかと言った。そしてふぅと一息吐いてから椅子を引いて、さて、と切り替えるように口にした。

「教室に戻らない?」

 と、冬木は私の眼を見据える。咄嗟に視線を外すと、七夜先輩から返された例の栞が頭を覗かせているのが見えた。

「あの絵、描き直したんだってさ」

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