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 結論から先に話せば、冬木は七夜先輩からの告白を一時保留にした。いや、こう言ってしまうとまるで冬木が優柔不断で不甲斐ない腑抜けのように聞こえてしまうだろうからよくない。いつも独りで何を考えているか分からない、言ってしまえば無愛想な男だが、義理は通す人間であることは知っている。なんだか悪口を並べ立てた様になっているのは、決して嫉妬だとか羨望だとかいうのを誤魔化すためではない。

 とにかく、保留だった。正確には、七夜先輩が冬木に、一時保留に

 なぜか。決まっている。

 私の秘密とやらを先に引っ張り出してやろうという魂胆に違いない。彼女の表情がそう語っている。即ち、先ほどの約束、結んだつもりはないが結果的に有無を言わせず定まった契約に基づき、私は私の秘密を告げねばならない。

 ……本当に? やっぱり間違ってはいないだろうか。だって、少なくともフェアではない。

 だが、フェアではないが、どことなくイーブンな気はする。言うなれば、痛み分けというやつ。

 いずれにせよ、七夜先輩の眼は許してくれそうになかった。冬木も、諦めろと言っているようだ。いや彼はそれどころではないか。

 本題に戻ろう。

 誕生日、では足りないだろう。対等となるには、どうすれば良いか。大きく傾いた天秤を戻すには、何を乗せれば良いか。

 手札なんて、大したものは持っちゃいない。それでも、その数少ない手札でなんとか凌ぐしかあるまい。では、強力なカードはあるだろうか。あるじゃあないか。先ほど冬木と話していた、烏の話が。

 だがまぁ、とりあえず。

「三月二十一日です」

「春分ね。うん、覚えたわ」

「そうですね。お彼岸でも、ありますけど」

「じゃあご馳走はぼた餅?」

「そんなわけないでしょう」

「そうなの? 良いと思うんだけれど。美味しいじゃない、ぼた餅。まぁいいわ。それより、白本さんの秘密も聞けたわけだし……」

 七夜先輩は俄に首を回した。机に片肘をついて腕を立て、指を手前に流し、その手の甲に顎を乗せる。相変わらず組んだ脚の上からは銅が捻れて弧を描く。一種妖艶な雰囲気があるとも言えたが、彼女の場合、纏っているのはやはり悪戯っぽい空気だった。

「話を元に――」

「え、いやちょっと……」

 あまりに切り替え速いので、私は咄嗟に呼び止めてしまった。七夜先輩の切れ長の目縁まぶちの奥で、眸がゆるりと私に向けられる。

「何かしら」と、最小限の口の動きが、妙にぬるぬると動くように見えた。再び、身体の自由が利かないような感覚に陥った。だが今回は、首根を掴まれたというほどの感触ではない。逃げることは、出来る。だけど、脚が竦む。

 蛇に睨まれた蛙。

 冬木を見た。目が合った。途端、彼は一瞬目を泳がせて、視線を外した。

 こいつ、図ったか。

 いや、冬木はそこまで偏屈な男ではないだろうし、小賢しい真似はしないだろう。彼なら、もっと正攻法で攻めるはずだ。それに、七夜先輩を呼んではいないと言っていたし。

 まぁ、見当は付く。

 深夕さんの入れ知恵。その辺り。具体的なプランはなくとも、頼りになる人に相談くらいはさせたに違いないから。

 しかし、何にしても、今は私のフェイズである。据えられた七夜先輩の視線は離れそうにない。逃げの一手を試みた瞬間、その隙を好機とみて噛みつかれそうである。そうなれば、きっと今後の人生を毒に侵される。

 後悔という毒に。

 悔恨という猛毒に。

 すでに毒に浸ったこの身でこれ以上意地を通すのは、もはや無意味で、無意義で、無益だろう。だから私は、一日に二度、過去を話す羽目になった。

 羽目になった、と消極的な言い方になってしまうのは、言い訳を探していたからなのかもしれない。

 それが私か。

「もう一つ、秘密があります」

 気づけば肩に留まっていた墨華を撫でるように手を添えながら、私は屹立として言った。

「幻影が見えるんです。鴉の幻影、それも、本当に真っ黒な烏」

「へぇ。それは興味深いわね。まぁでも、冬木君の返事を先延ばしにするためっていうなら、別に後でも良いわよ。交換が釣り合うか、いえ、釣り合うと判断するかで悩んでいるなら、それは後で考えれば良い。もう、契約は果たされたんだから」

 一々鋭い。なんだか癪だ。

 だが、不思議なことに私は落ち着いている。この場は既に彼女らによって整えられているようで、籠の中の鳥なのかもしれない。

「いえ、これは、けじめです」

「そう。なら聞かせてもらおうかしら」

「はい。あ、でも、その前に」

 私は冬木にすこし厳しめの視線を向けた。

「ハーゲンダッツが食べたいなぁ」

「……買ってくる」

「私は苺味がいいわね。そうねぇ、三十分くらいかかるかしら?」

 七夜先輩が視線を投げてきたので、私はささやかに頷いて返した。

「え、先輩もですか。はぁ、分かりました。そのくらいで」

 冬木は砂時計と文庫本を仕舞い、一切合切を持って、といっても鞄くらいのものだが、たったったっと小走りに教室を後にした。

 それから数分、いや数十秒、あるいは数秒だったかもしれないが、静かな時間が流れた。その須臾の間の後、私はゆっくりと声を発した。

 たぶん、少し震えながら。

「烏の名前は、墨華と云います。私が名付けました。墨汁の墨に、華やかの華」

「墨華、ね」

 私は、過去に遭った苛めと、その後の墨華の出現、墨華の行動と関わった人物の淋しさや哀しさを語った。

 時折、涙ぐんでしまったこともあった。冬木に対する述懐ではこんなことはなかったが、あの時話したエピソードは少し漠然としていたからだろう。激情に浸るには些かからりとしていた。今回は逆に、そんな風に冷静に一度適当に口にしていたから、より適切な言葉を選択できたのかもしれない。

 あとはそう、七夜先輩だったからかもしれない。出会った途端に眼のことを言い当てられ、怖いながらも、不思議に思いながらも、信じるに足ると心の片隅で感じていた。そう思えたからかだろうか。

「そう」

 七夜先輩は耳を傾けていた。相槌は打つが、只、私の次の言葉を待ってくれた。

 私はまた、玉響の時間を味わってから、

「それで先輩」

と切り出した。

「何かしら」

「どう思いますか、墨華のこと」

「どうっていうのは、例えば、存在についての科学的な知見のことを言っているのかしら。それとも、その烏が現れた理由とか解釈とか、そういう疑問かしら。もし前者ならば、私は力になれないわね」

「後者なら?」

「後者なら、そうね、なんて話そうかしら。もちろん私も判然としているわけじゃないけれど、うーん。とりあえず私に言えることは、白本さんはその烏に、全部背負わせているんじゃないかなって」

「背負わせてる?」

 何を?

「そう、白本さんが触れる、感情を」

「感情……」

 それはつまり、どういうことだろうか。

 私の感情。

 嫌なこと言われたら腹が立つし、美味しいものを食べたら嬉しいし、人が死んだ話を聞けば哀しい。あとは――まぁ他にも色々あるだろう。だが、それを背負わせるというのは、いまいち理解に苦しむ。

 というか、相談に乗って貰ってなんだが、私の拙い述懐を聴いただけでこんな含蓄のある科白を吐けるものなのだろうか。裏で情報を得ていたりするのだろうか。可能性はあるが、まぁ、それも今更か。

 何にせよ、感情を背負うというのはピンとこない。

「ちょっとよく分かりません」

「私にも分からないわ」

「え……」

 そんな勝手な、とは言えず。

「そんな感じがしたってだけ。ただ、これはもう勝手な、個人的なものなんだけれど、もう少し予想があってね。二つ、質問していいかしら?」

 ずいぶんと保険を掛けるような言い回しだったが、私は聴いてみたいと思った。分からないとの言には肩透かしを食らってしまったが、直截な態度が却って信頼の糧になったのかもしれない。

 私が首肯すると七夜先輩は、それじゃあと続けた。

「白本さんは、墨華が私の何かに羽を植えるのを見たことはあるのかしら?」

「それはないです」

 たぶん。なかったはずだ。私が気づいていない場面で墨華が勝手をしていた可能性もないことはないだろうが、限りなく小さいだろう。だって、彼女は私の幻想なのだから。

 七夜先輩は目を細めた。

「そう、それは良かった」

「良かったって、何――ん」

 聞き返そうとすると、七夜先輩の手が私の唇を制した。それじゃあ二つ目と、代わりに彼女が言う。

「貴方、他人のために泣いたことはあるのかしら? 自分のことじゃないわよ。誰かのために、誰かを想って、泣いたことはある?」

「泣いたこと……」

 それは、あるんじゃなかろうか、と思って記憶を探ってみる。直近で涙が出たのは、先ほど七夜先輩に過去を話したとき。その前は、足首を挫いた時だろうか。合格発表や卒業式は少し泣いたと思う。写真のデータが飛んだ時も泣いた気がするけれど、それ以上に喪失感が強くてあまり覚えていない。

 だが違う。これらは全て、私が私のために泣いている。痛いから、嬉しいから、淋しいから、哀しいから。凡て自己完結している。七夜先輩の云う涕涙ているいとは違う。

 続け思い返してみても、思い当たらない。懸命の検索にも一向に引っかからない。掠りもしない。

 これはつまり、そういうことなのだろうか。

「ないかもしれません……」と、私は呟くように答えた。

「そう」

 七夜先輩は、また目を細めて、只、今度は少し嬉しそうに口元を綻ばせている。そうして、

「優しすぎるのかもねぇ」と言って鞄を持ち上げた。

「続きは歩きながらにしましょうか」

 言葉の意味は分からなかった。

 ひとまず落ち着こうとして窓外を見ると空がぼやけていた。薄い雲がかかっているようだ。南の月が朧な半円の判を押している。

 一通り窓枠の端から端まで眺め終えて、視線を七夜先輩の戻す。立った彼女は微笑んでいた。

 やっぱり意味が分からなかった。

 只、何かが心で燻った気がした。

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