3-3

 鬱陶しい程の碧空の下で信号が青に変わり、私と冬木は共に渡った。入道雲の頭が潰れて千切れようとしていた。

 深夕さんは火事の後、祖父母の家に引き取られていた。私がそれを知ったのは高校合格の報告をしたときだった。彼女は心から喜んでくれたようで、合格祝いに喫茶店でサンドウィッチを奢ってくれたほどだった。今も同じ家に住んでいる。

 田園の間を冬木と共に二十分ほど歩いた。風車がからからと回っている畑の横を通り越し、道なりに坂を登っていく。小学生くらいの子供二人が向こうから駆け下りてきてすれ違った。それを見ながら振り返ると、彼方に金剛山地が望めた。空は憎たらしい程に晴れ渡っている。私は日焼けが気になって帽子を目深にかぶりなおした。眩しくてサングラスでも掛けたい気分だが、ちょっと不格好になるのでやめた。

「暑いなぁ」

 私の仕種を見た冬木が呟くように言った。

「本当に」

「そういえば、こんな所まで来て今更だけれど、足はもう平気なの?」

「あぁ、もうなんとも。親にはさんざん気をつけろって言われてるけどね」

 肩をすくめた私に、冬木は乾いた笑い声を零した。

「まぁ、ある意味そのお陰でこんな場所まで一緒に歩いてるわけだから、僕としては感謝した方が良いのかな」

「数奇な運命だわ」

「急に失礼だなぁ」

 このとき私は「数奇」というのをただ「一風変わった」という程度の意味合いだと勘違いしていた。ちょと格好を付けてみたつもりだった。だから冬木に失礼だと言われて、少し混乱した。

 すぐに何故と尋ねて、冬木から、だって運が悪いってことじゃないかと言われたときの私の慌てようは、もう思い出したくない。腹を抱えて笑った冬木の顔は綻んでいたように思うが、私としては些か不服だった。電柱に留まったカラスにさえ馬鹿にされた気分だった。

 深夕さんが住む家は、民家が建ち並び始めた区画の二軒目だった。墨華が羽を休めたコンクリート塀にはめ込まれた白い表札に「式」と黒く無骨に彫られていた。古い日本家屋で、剪定された松が塀の上を這うように伸びているのが見事だった。

 インターホンを押そうとした所で、示し合わせたかのように玄関の引き戸が開いた。

「久しぶりね、英波さん。暑かったでしょう」

 芯のある涼しい声音は、合唱部で聴いた当時の深夕さんの像に合致した。ただ、まったく同じというのも嘘で、例えば濃茶が練られてとろみが付いたように、私の知らない間に深みを帯びたようだった。

「お久しぶりです。まだ夏ですね」

 庭の方で風鈴がちりんちりんと鳴るのが聞こえた。

「そちらが冬木君ね。初めまして、じゃないんだろうけれど、ごめんなさい、私は覚えてなくて」

「いえ、僕もうっすらとしか。急にわがままを聴いてもらってありがとうございます」

「気にしないで」と、深夕さんは垂れた髪を耳に掛けながら、

「とりあえず上がってちょうだい」

 祖父母は町内会の集まりがあるとかで、屋内にいるのは深夕さんだけだった。通された六畳ほどの部屋は、南の障子から明るい陽射しが差し込んで畳が温められていた。軒先に黒い鉄器の風鈴が吊してあって、ちりんちりんと小綺麗な音を時折零していた。玄関で聴いたのはおそらくこれだろうと思われた。

 部屋では扇風機が首を振って蒸し蒸しとした空気を引っかき回していた。炎天下を歩いてきたため予想以上に疲れており、ぬるい風が横切るだけで心地よかった。座布団に腰を落ち着けていると深夕さんが紅茶を淹れて持ってきてくれ、わざわざ用意してくれたのであろうタルトと一緒にいただいた。甘いサツマイモの味がした。

 深夕さんは高校でも合唱部に所属しているそうだ。いっそう艶と深みの増した声色がその練習ぶりを物語っていた。強豪と呼ばれるにはほど遠い実力らしいが、口ぶりからは彼女が十分満足している雰囲気が漂っていた。

「英波さんは、何にも入っていないのね」

「気楽で良いですよ」

「あなたの気楽は怠惰じゃないのかしら」

「まぁ似たようなものでしょう」

 私と深夕さんは二人してはははと笑った。部活動の前に下らない冗談を交わした中学時代を思い出す。転校してから波風のない、味気のない時間を淡く薄く彩ってくれた人。進んで友達を作らなかった当時の私にとって唯一と言っていい友人。彼女と話していると、どろどろに塗り固められた心がほろほろと解けていくような気がした。

「でも今は、放課後は冬木と静かに過ごしていることが多いですね」

 私は割った砂時計から始まった放課後の時間について語った。

「それでちょっと大人っぽくなったのね」

「私ってそんなに子供じみてましたか?」

「うーん……何というか、今日は綺麗だなぁと思って」

 深夕さんは私をゆっくり眺めながら言い、最後に冬木をちらりと見た。それから私の眼を覗き込むようにして微笑んだ彼女の口元がやけに悪戯っぽく、途端に私は頬が熱くなった。即座に言い返そうとしたが、下手に喋れば却ってぼろが出そうだと思い、なんとか堪え、口の中で言葉を選んだ。冬木はそろそろ紅茶を飲み干そうとしていた。

「高校生にもなればお洒落くらいしますよ」

「そうかもねぇ」

 深夕さんは静かに紅茶を喉に流し込んだ。カチャリとカップが置かれると同時に風鈴がまたちりんちりんと鳴った。その涼しい音のせいで、私の胸の燻りが煽られるようだった。

「それにしても、砂時計なんて珍しいわね」

 扇風機のぶーんという音がやけにやかましく聞こえた。深夕さんの声の深みが増したからかもしれない。冬木は目を伏せながら言葉を零した深夕さんを一瞥して何か言おうと口を蠢かせたが、彼女の声が先に発せられた。

「露夏に貰ったもの?」

 にわかに冬木は深夕さんの瞳へ視線を向けた。

「はい」

 躊躇っていたのが嘘のように、あまりにも自然な声だった。相変わらず掠れてはいるが、喉の奥の方で水が湧くような柔らかさがあった。

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