2-2

 中学三年の夏、墨華がまた強烈に魅せられた。それは私が転校してから一年が経ち、初めて訪れた近所の夏祭りの日だった。それまでも何度か興味を示して羽を植え付けたことはあったが、その日の煌めきは一際だった。

 昨年は台風で中止となったのだが、仲の良い友人がいるわけでもないから大して哀しくはなかった。独りで屋内で怠けては母親に嫌味を零される日々だったように思うが、だからといってどうすれば良いのか、ちっとも分かりはしない。面倒くささだけが募って、時間だけは無為に通り過ぎて、ただそれだけだった。

 だから、その年の夏祭りに特段胸を躍らせていたと言えば、私は大法螺吹きになる。行きたくなかったと言った方がよっぽど端的で正しいと思う。

 だというのに祭りに足を運んだのには訳がある。

 部活動を辞めて久しかったが、深夕さんとは時折連絡を取る仲になっていた。彼女は既に高校生となっていたが、親戚が屋台を出しているとかで、その年の祭りの日は手伝いのためにかり出されているのだということを知った。しかし、急な体調不良者とかで人員不足に陥ったらしく、それで、ちょうど暇だった私は二つ返事で応援の約束をしてしまったわけだった。

 七月二四日の朝九時頃、私は自転車に跨がって神社に向かった。晴天溌剌としていて、山辺に首をもたげた雲の峰が天色あまいろの夏を背負っている。若草山の焼野が明るい。

 軒先に吊された風鈴。蝉の時雨。アスファルトの熱。日影で欠伸をする猫。世界がカラフルだった――鬱陶しいほどに。

 私と共に黒い翼で風を切る墨華が目に入ると、自分の背にも風切り羽が生えて、どこまでも疾走できるんじゃないかと思えてしまう。ペダルを踏み込むと首筋に滲んだ汗が温かい風に吹き飛ばされた。

 境内には既に露店が所狭しと並んでいた。といっても敷地は広くないから目移りするほどではないが、リンゴ飴やらチョコバナナやらえびせんやら、縁日でしかお目に掛けない品揃えは非日常を十分演出している。

 私が呼び出されたのはたこ焼き屋だった。

「英波さん。ありがとう、こんな朝から」

「準備万端じゃないですか」

「まぁね。どう?」と、深夕さんは頭に巻いた鉢巻きをくいっと摘まんだ。

「似合ってる?」

「様になってます」

「英波さんも巻いてね」

「え」

 そうなの? 別に構いはしないけれど。

 差し出された手ぬぐいをよじる。髪は後ろで一つに結い上げ、その上から大雑把に巻き付ける。きゅっと縛ると、頭が引き締められて背筋も正されるようだった。

 規模は小さくとも夏の祭りというのは特別なもののようで、近所の学生を始め、子連れの家族などで想像以上に賑わった。

 私はひたすら調理器具の整理やパックの準備なんかをさせられた。深夕さんは父親とともに店頭でたこ焼きを焼き、お客が来る度に売りさばいている。

 親戚のおばさんらしい人が隣で一息吐いていた。

「本当ありがとうね、白本さん」

「いえ、こういう仕事、初めてなので楽しいです」

「そう。深夕ちゃんも、あなたがいてくれて助かったと思うわ」

「そんな、私なんて大したことは……」

 そこまで言って、なんと続ければ良いのか分からなくなった。深夕さんの境遇を思えば、何を述べた所で、思索のない私の言葉には価値など宿るはずがない。そう思えば思うほど、祭りに精を出す彼女の姿が孤高に見えてくる。

 どうして彼女は今もこうして、笑顔で祭りに来れるのだろうか。どうして彼女はあんなにも強く振る舞えるのだろうか。

 私が部活を辞めたあの日、深夕さんが話してくれた火事のこと。想像しただけでも、私は胸が苦しくなった。

「英波さん、休憩行ってくれていいよ。徳井さんとこが応援に来てくれたから」

「え、でも……」

「お参りはしとかないと。私も直ぐ行くから、裏で一寸待ってて」

 逡巡していた私を急かすようにして、深夕さんはてきぱきとその場の注文を片付ける。裏に出てきた彼女が手ぬぐいを頭からほどくと、額に滲んだ汗が提灯に煌めいた。

 夜も大分更け、十歩先の人の顔はおぼろげになっている。浴衣を着て下駄を鳴らす者、カメラを手に喧噪を収める者、店の知り合いと歓談する者、連れだって金魚すくいで勝負する者、提灯の明かりの下で人を待つ者。種々雑多な影が夜のとばりに覆い尽くされている。私たちもその幕をくぐり、厳かで賑やかな世界に溶けていく。

 拝殿近くに来ると、しゃらしゃらと鈴を鳴らす音が耳に届いた。十円玉を用意しながら短い列に並ぶ。蝉時雨が鎮守森から流れてくる。玉砂利が靴底を洗う。石段を登った先に神鏡が見えて、私と深夕さんが閉じ込められていた。

 投げ入れた賽銭がちゃりんと闇に吸い込まれた。墨華がその中をじっと覗き込んで、入れもしないのに頭を突っ込んでいたのだが、引っかかったのか、一度羽をばたつかせた。慌てふためいた果てにようやく嘴が顔を出すと、アーと覇気のない聲を上げた。始終を見届けてから手を合わせると、蝉の声がいっそう耳に流れ込んでくる気がした。

「あ、深夕さんだ」

 参拝を終え、脇に逸れた所で聞こえた声に深夕さんは振り返った。社務所横の控え室から手を振る巫女さんがいた。深夕さんに連れられて私も戸をくぐると、中で巫女さんは席を勧めてくれた。暗めの蛍光灯の明かりの下、蚊取り線香を焚く匂いがした。

 冷房と言えるものは扇風機だけだが、それのお陰で些か涼しい。軒先に吊された南部鉄器の風鈴が可愛らしい呟きを零している。墨華も風の通りが心地よさそうで、鴨居の近くをすいーっといくらか飛んでから、扇風機の頭で羽を休めた。首振りに合わせて風見鶏のようにあっちを向き、こっちを向きを繰り返すのがなんだか可笑しかった。

「お疲れ様です。休憩ですか?」

「そう。ちとせも大変そうね」

「もうくたくたですよ。朝から準備で大忙しで。まぁもう慣れっこですけど。えっと、ところでそちらは?」

「中学校の部活の後輩。ちとせの一つ上かな」

「あぁ、そうだったんですね。初めまして、瀬川ちとせです。中学二年です」

 丁寧に下げた頭にはべっこうの簪が刺さっていて、結い上げられた髪が巫女装束を引き締めていた。私は初対面で他人行儀になってしまったが、瀬川さんはまた丁寧に、よろしくお願いしますと微笑んでくれた。

 近所のよしみで昨年から巫女の手伝いをすることになったという。幼い頃から連れられて手伝いに来ていたので、元々憧れてはいたのだそうだ。恥じらうことなく、自分の姿に誇らしげだった。

 深夕さんとは、親の仲が良くて知り合ったらしい。

「巫女さん、似合ってるわね」

「いえいえそんなぁ……」とはにかむ瀬川さんだったが、あ、そうだと、ちょうど何か思い出したように示指を立てて、

「おつゆの、頼まれてたんでしたね」

「あぁ、そうだった。ありがとう」

 瀬川さんは一寸失礼しますと言って出て行くと、ものの数分で戻ってきた。そうして差し出されたのは絵馬とシャープペンシルだった。

 彼女の手は、まるで割れ物にでも触れるような繊細さを帯びていた。色白だからだろうか。整えられた爪の先が、シャープペンシルの肌を撫でる。ペン先を眺める彼女の横顔を見ると、淡い蛍光灯によって頬の下に影ができていた。

 扇風機の上の墨華がアーと啼いた。

 ゆっくりと翼を掲げて身体を宙に浮かせ、深夕さんの腕に留まる。自分の羽を引っこ抜いて、咥えたそれを絵馬とペンに植え付ける。羽は星屑のように弾けて消えた。そうして私の肩に戻ってきた墨華は何食わぬ顔で毛繕いを始めた。勝手気ままで仕様がない。

「毎年、正月に飾るために十二月の末には書きに来てたんですよね。絶対にお露が言い出すんですよ。何を気に入っていたのか今も分からないんですけど……」

 瀬川さんは絵馬の角をくいっと引いて覗き込む。

「あんまり楽しそうに書くから、私もつい付き合ってしまうんですよね。結局、今年も書いちゃいました」

「うん、初詣の時にいつも見させて貰ってたよ。私も書こうかなって……」

「あ、深夕ちゃんいたいた。親父さんがそろそろ戻ってきてくれって」

 がらがらと開けられた引き戸から、応援にきてくれた徳井という男性が顔を覗かせ、深夕さんの言の葉を遮った。

「呼ばれちゃった。じゃあ私は戻るね。英波さんはまだゆっくりしててくれて良いから」

「え、でも……」

「いいからいいから。徳井さんもいることだし」

「おう、任せとけお嬢ちゃん」

「はぁ、そこまで言うなら」

 にこやかに掌で制する深夕さんと親指を天にを突き出す徳井さんに、私はすごすごと退いた。

「これ、またあとで取りに来るね」

 絵馬とシャープペンシルが机に置かれた。分かりましたと、瀬川さんは首肯した。

 深夕さんは、時に自分の意思を強く持ちすぎるきらいがあると思う。心に芯があるのだろうから尊敬できるのだが、反面、他の心情に配慮する程度が低くなる場面が時たま見受けられる。場合によっては温度差が生じる。それはまるで、彼女以外の世界をティントで青く補正するように。静かに、でも傍目に見ると鮮やかに。

 残されたはいいものの、初対面の人と二人にされると、何をどうしていいやら分からない心持ちになる。扇風機がブーンと首を振る中、風鈴が三度ほど鳴った。しゃらしゃらと鈴が鳴るのは一度聞こえた。

「あの……」と、瀬川さんが控えめに口を開いた。私が黙って眼を向けると、慌てた様子で、

「あぁすみません、その、深夕さんの後輩さんと会うなんて初めてで。仲の良い人がいたなんて知らなかったので」

「いや、そんなでもないと思うけど。部活前にお話してたくらいだし」

「そうなんですか? 屋台の手伝いしてるからてっきり」

「まぁそれは、成り行きというか」

「そういうもんですかねぇ」

 会話が途切れると、自然と視線が宙を彷徨う。そうして視線の落ちた先が、先ほど深夕さんが残していった絵馬とシャープペンシルだった。墨華がそのまわりをちょいちょいと小刻みに跳ねている。描かれた兎と仲良く踊っているようだ。

「絵馬、書いたことありますか?」

 私が見つめていたものだから、瀬川さんは興味があるのかしらと想像したに違いない。

「ううん、ないと思う」

「私は毎年書いてたんですよ」

「さっき言ってたね。一年の願い事みたいな?」

「そうです。友達、深夕さんの妹に誘われて、年の瀬にここに来てたんです」

 来てた、ね。今は違う。きっとそう。だって、墨華が啼いている。

 瀬川さんと眼を合わせると、にこりと微笑み返してくれた。意地の悪い勘ぐりをした自分が矮小に感じられ、どうにも気まずくなってしまう。だから私はもう一度目を伏せて、

「そういうの良いね。なんか、憧れる」

「良ければ書いていきますか?」

「でも何を書けば良いか……」

「何でもいいんですよ。無病息災とか、当たり障りのないことで」

「……じゃあ、せっかくだし」

「取ってきますね。ちょっと待っててください」

 軒下の風鈴を揺らして立ち去る瀬川さんの背を墨華と共に見送った。相変わらず扇風機がブーンと首を振っている中、蝉の声が温かい風を運んでくる。

 何を書こうか悩んでいると身体が気怠くなってきて、頬杖をつき、ほどなくして机に突っ伏した。天板が冷たくて気持ちいい。首を横に向けて頬を付けると、目の前で墨華の尻尾が揺れている。指先ではじくと、驚いて扇風機の上に逃げてしまった。

 身体を起こして首を反らす。梁を視線でなぞると、端から端まで一本のひびが走っていた。黒い筋が濃く刻まれている。それは太い木に負けない程揺るぎないように見えて、細いくせに力強くて。

 そうだ、と私は絵馬に書くことを決めた。

「暑いですか?」

「うわ!」

 不意に横合いから瀬川さんの顔が現れた。思わずのけぞって椅子ごと倒れそうになるのをなんとか踏ん張り、姿勢を戻す。

「ごめんなさい、脅かすつもりじゃなかったんですけど」

「大丈夫大丈夫。ちょっとぼーっとしてたから」

「そうですか。あ、これ絵馬です。今年は辰年なので、そこにあるのとは違いますけど」

「わざわざありがとう」

 サインペンも受け取って絵馬を裏返す。木目の走った薄い木肌。さらさらとした肌触りだった。

 直前に決めた事柄を綴っていく。瀬川さんは向かいの椅子に赤い袴を整えて座った。

 私は書き終えた絵馬を渡したが、

「あ、財布、テントだ……」

「あとで大丈夫ですよ。それより、掛けに行きましょう」

「分かった。あとで必ず」

 社殿の脇に奉納場所があった。空いている釘に紐を引っかけると、カタンと絵馬がぶら下がった。暗くてよく見えない。

「なんて書いたんですか?」

「見てなかったの?」

「いやあ、うずうずはしましたけど、さすがに気が引けたので」

 薄明かりの奥で、えへへとはにかむ顔が見えた気がした。優しい子なのだろう。私は絵馬に向き直って、

「自分を信じられるようになりたい、って」

「格好いいですね」

「そんなことないよ。むしろ今まで無様そのものだったから」

「なら、余計格好いいですね」

「深夕さんの方が、よっぽど格好いいよ」

「あぁ、それはそうかも」

「ちょっと?」

 瀬川さんは今度こそ、えへへと笑った。笑ってから、一息吐いて沈黙した。それから徐に歩を進めて、私が掛けた場所とは少し離れた所の前で止まった。手を伸ばし、奉納された絵馬に指をかける。「式深夕」の名前がかろうじて見えた。

「深夕さんのお母さん、まだ満足に動けないみたいです」

「そうらしいね」

 瀬川さんは、戸惑いもせずに返答した私を一瞥して、

「やっぱり聞いてましたか」

「去年の夏に」

 あの夏、私が部活を辞めた日に。

 その一年前、深夕さんが体調を崩してコンクールを辞退する少し前に、火事があったこと。そこで深夕さんの母親は重度の火傷を負ったこと。今も定期的に入院生活が続いていること。深夕さんは私に静かに語ってくれた。妹は亡くなったらしい。

 彼女は自分の精神と闘っていた。幾度も腫れた目の下を笑顔で隠し、力なく袖に通した手で掬った水を顔に浴びせて全てを流した。己の中に押しとどめて、ただ現実に相対した。

 そんな自分の姿を、誇らしげに母に見せるために。高校に入ってから勉学に家の手伝いにと精魂を詰めたのはそのためだろう。

 だからきっと、深夕さんは格好いいのだ。それでいて、淋しそうなのだ。

 蝉の声がじりじりと肌を震わせてくるような夜。首筋の汗がべたついている。風はぬるい。身体に熱が籠もって火照っている。でも、炎の熱さはこれの比ではない。考えただけで喉の奥が渇いた。

 かこん、と瀬川さんが絵馬から手を離した。見ると、後ろ手に組んで身体を横に傾けていた。薄明かりの下で巫女装束が仄かに浮かんでいる。

「あの、私も英波さんって呼んで良いですか?」

 名前を呼ばれた響きが少しこそばゆかった。

「もちろん」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る