第11話 手の魔女 1

ある晩遅く、彼はさらに不思議な体験をした。眠りにつくために義手を外し、自室のろうそくの吹き消したとき、知らない女が部屋の隅に立っていた。灯りを消したので真っ暗なはずなのに、女の姿形や色までがはっきりと分かる。あまりの恐怖で転倒し、助けを呼ぼうとしても、声が出ない。すぐにこの場から逃げたいけれど、体も動かない。


女はゆっくりと静かにヨーケルに近づく。彼はその女を見ることしかできない。女の髪は、黒みの強い茶色で長く、腰までありそうだ。顔の上半分が大きなゴーグルで覆われている。そのゴーグルもガラスが嵌まっているわけではなく、何かで黒く覆われているので、鼻と口しか見えない。年齢は、ヨーケルと同じか少し年上のようだ。床にまで届きそうな丈の長い、茶色い貫頭衣を着ていた。


「私はグルタル。この世界での通り名を、手の魔女と言う」

グルタルと名乗る魔女がヨーケルに右手を差し出す。相手に敵意はなさそうだ。体の硬直が解け、ヨーケルも右手を差し出す。するとグルタルは彼の右手首を掴み、ぐいと引き起こした。彼はそのまま書き物用のデスクのソファに座り、深呼吸で息を整えた。


「本当に、手の魔女なのか」

「いかにも」グルタルは腕を組み、壁に背を預ける。

「分かった。信じるよ」

「ずいぶんと物わかりがいいな。この世界では、私はおとぎ話の登場人物だというのに」


「ああ、少し前のオレなら決して信じなかっただろう。でも、この義手は、おとぎ話の世界のものとしか思えない。この手はあんたの手なんだろう。取り返しにでも来たのか」と、机の上の義手を顎で示す。「そうだとしたら、もう少しだけ待って欲しい。どうしても今描いている絵を完成させたい」と続けた。


「それは確かに私の手だが、取り返すつもりはない。なにせ今の私には実体と呼べる主体がない。だから私の姿が見えるのも、お前だけだ。あえて言えば、その左手自体が、私そのものだ。取り返すも何もない。それは、お前が持っておけ」

「それはありがたい。では、何の用で現れたんだ。まさか、神話のとおり、目の魔女を殺しに来たんじゃないだろうな」と笑う。


「そうだ。目の魔女、コハクを殺す。悪いがそれに付き合ってもらうぞ」

ヨーケルは冗談で言ったつもりなのに、グルタルの穏やかでない返答に困惑した。

「ちょっと待て、それは神話の、おとぎ話じゃないのか」

「神話というものは往々にして、歴史的な事実を基に再構築されたものだ。神話に対応する事実が存在しても不思議ではない。それに手の魔女である私の存在を信じるなら、神話の内容も信じるべきだと思うが」

「そう言うのなら、その対応する歴史の事実をとやら教えてもらおうか。いきなり目の魔女を殺す手伝いをしろと言われても、まったく事情が分からないのでは、返答のしようがない」

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