第10話 画商

翌日から、彼は外出せずに朝から寝るまで、とにかく絵を描いた。好きなものや愛したものを描く。そんな当たり前の衝動に駆られ、作品が出来上がっていく。家族、見慣れた風景、果ては見たこともない空想の世界などが次々と描かれる。


昔、美術の家庭教師が、描きたいものを描けと口癖のように言っていた。そのときは、何を当たり前のことを言っているんだ、そんなの分かりきっているじゃないかと思っていたけれど、自分はその意味を全然理解していなかったことに気づいた。つまり、漠然と画家になりたかっただけで、これまで本当に描きたいものなど、何一つとしてなかったのだ。


気がつけば作品の半分以上は、アコニットの肖像画だった。現実のアコニットは常に眼帯をしているけれど、彼の描くアコニットは、眼帯のない完璧な理想のアコニットだった。左手の生み出す絵は、どれ一つとして同じ画風はなく、写実的なものから前衛的なものまでバラエティに富んでいる。特にお気に入りだったのは写実的な裸婦画で、それらは彼の個人的な楽しみに供された。


これまでアトリエから使用人を遠ざけていたけれど、さすがに数週間にもわたって制作を続けていると、使用人たちも彼が中で何をしているのか気になり始めた。それとなく探りを入れてくるようにもなった。さらに作品数が多くなり、アトリエのスペースを圧迫していることもあって、とうとうヨーケルは、使用人たちをアトリエに入れ、出来上がった作品を別の部屋に移動させることにした。


アトリエに入った使用人は、星のごとく並ぶ大小様々な作品に圧倒され、一様に声を失った。作品の一つ一つがこれまでに見たことのない傑作で、そのすべてが天才の手によるものだと一目で分かる。ヨーケルがこれまでに手がけてきた作品の凡庸さとは一線を画しており、他の画家が描いたようにしか思えない。利き手を失い、握力の弱い右手で描いたとは到底信じられない。しかし、この部屋はおろか、この別荘自体に部外者が出入りしていないことは、誰よりも使用人たちが知っている。これらの作品はすべてヨーケルの手によるものだと信じざるを得なかった。感銘を受けた使用人は彼を褒め称え、その作品の一部をクエン家の本宅に送ると、予想通り、本宅ではちょっとした騒ぎになった。両親や兄弟、本宅を訪れる客たちは、始めはヨーケルが描いたとは信じなかったが、使用人たちが大真面目に間違いなくヨーケルが描いたものだと言うので、彼らも信じざるを得なくなった。


まもなくして、森の湖畔にある別荘に、客が大挙して訪ねてくるようになった。その中で最も多いのは画商であり、他には独身のヨーケルを支えたいと言う結婚希望の貴族の女や、肖像画の依頼のために来た王侯貴族の使い、先史文明の遺物商など、様々だ。


ヨーケルの心を占めているのは光の聖女アコニットだけであり、彼女に比べれば他の女など路傍の石に過ぎなかったわけだから、別荘を訪ねてくる女はすべて丁重に断って帰した。また、肖像画の作製についてもすべて断った。肖像画を描くには、本人を目の前にして描く必要があり、それは左手で描く様子を誰かに見られることを意味するからだ。とはいえ、権力者の使いの者をただで帰らせるわけにもいかず、小さな作品を手土産として持たせる必要があった。


彼が主に相手をしたのは、先史文明の遺物商たちと、少し前には彼を歯牙にもかけなかった画商たちだ。


遺物商たちには、先史文明の義眼を探させた。義手が動くなら、義眼でも見えるだろうという確信があった。ヨーケルも必要としているし、おそらくアコニットも必要としている。しかし、遺物商たちは中々それらしいものを見つけることができない。信用できる報告をする遺物商には謝礼として大金を支払い、引き続き入手を依頼した。


画商たちの方は、掌を返したようにヨーケルを褒め、競うようにその作品を買い求めた。ヨーケルは、もともと金銭に不自由しない上に、画商や世間に認められたいとか有名になりたいとか、そういった次元にはなかったので、作品がいくらで売れるかなどはどうでもよかった。そのため、請われるままに作品を売り払い、気まぐれにその金を使用人たちに分け与えた。使用人はみな口々に、ヨーケルに仕えることができて幸せだと涙を流すのだった。


そうやって、次々に作品を世に出していたが、数十枚とある裸婦画や光の聖女アコニットの肖像画は一枚も手放そうとしなかった。画商たちは、本当はそれらが欲しかったのだが、ヨーケルが頑として首を縦に振らない。そのため、画商たちは「絵描きの若旦那は光の聖女にご執心のようだ」と、客先で言いふらすことでその憂さを晴らした。それはすぐに噂になり、光の聖女の耳にも入ることになった。

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